石山本願寺(いしやま)
 別称  : 石山御坊、大坂御坊、大坂本願寺
 分類  : 平城
 築城者: 蓮如
 遺構  : なし
 交通  : JR大阪環状線大阪城公園駅または
      森ノ宮駅などより徒歩10分


       <沿革>
           明応五年(1496)、本願寺法主蓮如によって築かれたとされる。もともと石山という地名はなく、
          当初は大坂御坊や大坂本願寺などと呼ばれていた。いつごろ、どのような由来で石山という地名
          が生まれたのかは定かでない。当時の一向宗は山科本願寺を本拠としていて、蓮如も山科南殿
          に隠居した後、同八年(1499)に卒した。
           蓮如の跡を継いだ子の実如は、永正三年(1506)に管領細川政元の要請を受け、畠山義豊が
          守護を務める河内国へ攻め入った。このとき石山御坊にいた蓮如の最後の妻蓮能は畠山政栄の
          娘とされ、実如に強く反発した(ただし、政栄は河内畠山氏ではなく能登畠山氏の一族である)。
          反実如派は、石山御坊の住持であり蓮能の生んだ実賢(実如の異母弟)を擁立したが、実如は
          軍を送って実賢ら反実如派をことごとく追放した。石山御坊や山科本願寺が城塞化されたのは、
          このように本願寺教団が戦乱に介入するようになった実如の時代以降のこととみられている。
           実如の死後、法主の座は孫の証如が継承した。享禄五年(1532)六月、畠山義堯・三好元長
          連合軍が木沢長政の拠る飯盛山城を攻囲すると、長政の救援要請を受けた細川晴元は証如に
          加勢を依頼した。証如は2万といわれる門徒を動員し、包囲軍を打ち破ったどころか、義堯・元長
          両名を自害にまで追い込んだ。この大戦果は逆に晴元や長政らの警戒心を招き、同年七月に
          法華宗門徒を煽って山科本願寺を焼き討ちにした(天文法華の乱)。証如は本拠を大坂に移し、
          石山御坊は石山本願寺と呼ばれるようになった。以後、石山本願寺の本格的な城塞都市化が
          進み、証如の時代にはすでに摂州第一の名城と謳われるほどになったとされる。同時に寺内町
          の整備も進み、六町二千軒におよぶ町屋が建ち並んでいたとされる。その後もしばしば晴元の
          攻撃を受けたが、その度に防ぎきっていた。晴元は路線を転換し、三条公頼の娘を自分の猶子
          として、証如の子顕如と婚姻させた。
           元亀元年(1570)、足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、義昭とともに三好三人衆を野田城
          福島城に攻囲していたが、それまで中立を保っていた顕如は突如として門徒を率い、織田方の
          陣を攻撃した。これに呼応して浅井・朝倉連合軍が宇佐山城に迫ったため、信長は石山本願寺
          に対する付陣の兵を残して帰洛した。第一次石山合戦と呼ばれるこの戦いは、まもなく義昭や
          朝廷の仲介による講和が成立して終息した。この後、信長v.s顕如の石山合戦は10年にわたり
          断続的に続いた。石山本願寺には、優れた鉄砲術で知られる雑賀衆が援兵として入り、兵力で
          勝る信長軍の力攻めを困難にした。信長の戦略は包囲戦へと移行し、石山本願寺をめぐる戦い
          も、木津川口の戦いや天王寺の戦いなど石山の周辺を舞台とすることが多くなった。
           天正八年(1580)、信長による包囲網が狭まっていくなかで、これ以上の抵抗は難しいと判断
          した顕如は、信長に誓紙を差し出して講和を結んだ。顕如は講和の条件に従って石山を退去し、
          紀州の鷺森御坊へ移った。石山本願寺には顕如の子教如が留まり、なおもしばらく信長への
          抵抗を続けていたが、やはり同年中に父のいる紀州へと退いた。石山本願寺は、教如の退去
          直後に上がった火の手により2日間にわたって燃え続け、廃墟となった。出火の原因は不明と
          されている。石山本願寺は名実ともに廃城となり、天正十一年(1583)に羽柴秀吉が大坂城
          築城を開始するまで跡地のままであった。ただし、大坂築城を最初に企図していたのは信長で
          あったといわれ(『信長公記』)、同十年(1582)の本能寺の変以前に、すでに何らかの作事が
          行われていたとも推測されている。


       <手記>
           石山本願寺は、信長を大いに苦しめたことで有名ですが、跡地に秀吉が大坂城を築いたこと
          で、正確な位置は今も定まっていません。現在の大坂城二の丸東側が、今日では最も有力視
          されています。ここには、「蓮如上人袈裟懸の松」と呼ばれる古木の根のみがあります。秀吉・
          家康による天下普請や大坂の陣を経て、石山本願寺時代の樹木が現代まで残っているとは
          考えにくいのですが、本願寺の遺構は今のところ見つかっていないので、これが本物であると
          すれば、本願寺時代から続く唯一の遺物ということになるかと思われます。
           もう1つの候補地は、大坂城南外濠南側の法円坂です。法円坂からは難波京の遺跡が見つ
          かっていて、難波宮跡公園として整備されています。ですが、法円坂を本願寺跡とする説は、
          今では有力ではないようです。たしかに、ここでは淀川に突き出た上町台地の先端という地の
          利を生かしきれず、不落の名城とはなり得ないように感じられます。
           上述のとおり、大坂城は上町台地の先端に立地していますが、その本丸は古墳を利用した
          ものともいわれています。その場合、笠懸の松のある二の丸東側は台地の崖端ではあります
          が、古墳の外側ということになります。眼前の墳丘を無視していたとは考えにくいように思われ
          るので、その場合はおそらく本丸周辺も寺内町という形で本願寺要塞に取り込まれていたもの
          と推測されます。
           近年、大坂城に関する発掘調査が盛んになり、その成果も上がってきているようですから、
          石山本願寺についても何らかの手がかりが得られることを期待するばかりです。

           
 石山本願寺跡推定地に建つ石碑。
蓮如上人笠懸の松跡。 
 もう1つの推定地法円坂にある難波宮跡公園。
 右奥に大阪城天守閣が見えます。


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