狩野城(かのう)
 別称  : 柿木城
 分類  : 山城
 築城者: 狩野氏か
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁
 交通  : 伊豆箱根鉄道修善寺駅よりバス
       「柿木橋」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           工藤氏の一族狩野氏によって築かれたと考えられているが、確証はない。狩野氏は、
          工藤維景が蓮華王院領の伊豆国狩野荘を預かって下向したことにはじまるとされる。
          伊豆市教育委員会の現地説明板によれば、維景は現在の伊豆市日向に住み、維景
          の子維職が伊豆押領使に任じられ、柿木川流域に移ったとされる。
           維職の曾孫とされる工藤(狩野)茂光は、伊豆に配流された源頼朝の挙兵に呼応し、
          治承四年(1180)の石橋山の戦いで敗れて自害した。一般的には、この茂光の代まで
          に城が築かれていたと考えられている。茂光死後、長男宗茂は狩野介を称し、宗茂の
          弟らが狩野を名乗ったとされる。
           その後、狩野一族は駿河や遠江、奥州などへ拡散していった。狩野にも狩野介氏
          および狩野氏の嫡流が残ったようだが、鎌倉時代から南北朝時代くらいまでの動向は
          詳らかでない。
           戦国時代初期、興国寺城の伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆へ侵攻し、堀越公方足利
          茶々丸を滅ぼすと、狩野城主狩野道一はこれに抵抗した。しかし、明応七年(1498)
          に力尽きて開城し、降伏したとも、修善寺で自害したとも伝わる。茶々丸の殺害年に
          ついては、延徳三年(1491)、明応二年(1493)、そして明応七年の3説ある。前2者で
          あれば、狩野氏は堀越公方滅亡後単独で数年にわたって伊勢氏と争ったことになる。
          明応七年説をとれば、甲斐武田氏を頼って失地回復を狙っていた茶々丸との連携を
          図っていたものと推測される。
           降伏後、狩野一族は伊豆衆として北条氏に遇されたようで、『小田原衆所領役帳』
          には狩野介姓や狩野姓の家臣の名が散見される。また、同じく狩野一族とみられる
          狩野泰光は、御馬廻衆や奉行人として重用された。泰光と入れ替わりで登場すること
          から同一人物ともいわれる狩野一庵は、北条氏照の側近として活躍し、天正十八年
          (1590)の小田原の役で八王子城を守備して討ち死にした。狩野城がこれらの狩野
          一族のうち誰のものだったのか、あるいは北条氏直轄の城であったのかなど、道一
          以後の狩野城については明らかでない。


       <手記>
           狩野城は、狩野川と柿木川の合流点に臨む独立山上に位置しています。城山一帯
          は柿木農村公園として整備されており、駐車場も完備されています。山容はそれほど
          険しいということはなく、10分足らずで主城域にたどり着きます。
           中心部から南に突き出した山頂の峰が主郭で、北辺と西辺の土塁が残っています。
          北辺の土塁上に「狩野介茂光堡壘之跡」の碑が建っています。西辺土塁の南端付近
          は櫓台状に大きく膨らんでいます。この上には市教委が建てたらしい「南郭」の標柱が
          あり、土塁の麓の主郭を「中郭」としていますが、ちょっと無理があるように思います。
          櫓台に登ると、主郭下の斜面にいくつかの腰曲輪が連なっていることが分かります。
          ちょうど樹木が伐採されて切株だけとなっており、頑張れば下りていけたと思いますが、
          この日は恐ろしく風が強く、冗談ではなく吹き倒されそうな勢いでした。
           主郭の北端付近から、蝙蝠の羽のように両サイドに尾根が延びており、その付け根
          は堀切で断絶されています。したがって、主郭だけでも半ば独立した砦のようになって
          います。西翼には、二重堀を挟んで2つの曲輪が続いています。両方とも土塁で囲繞
          された方形の曲輪で、このうち主郭寄りのものは、中ほどに切れ込み様の堀が入って
          います。あるいは、この堀を虎口として南西麓からの登城路が伸びていたのかもしれ
          ません。ただ、この曲輪は低い土塁のすぐ外に散策路が走っているため、後世の改変
          入っている可能性も考えられます。この曲輪には「主郭」の標柱が建っていますが、
          上記の主郭の直下にあるため、明らかな誤りと思われます。主郭から遠い方の曲輪
          の外側には、おそらく西端の遺構と思われる堀切があり、その少し先に尾根の鞍部が
          あります。つまり、狩野城は地形の凹凸にとらわれずに堀を穿っており、大きな特徴と
          いえると思います。
           東翼には、東郭と呼ばれる曲輪とその先に現地で出丸と呼ばれる空間があります。
          東郭は、やや高めの土塁で囲まれているものの、内部はかなり狭く、応射陣程度の
          役割しか期待できそうにありません。出丸は、広い山上の台地に段差を設けて囲った
          だけの空間です。西翼と比べて著しく造作がお粗末で中途半端な感が否めません。
           『静岡の山城 ベスト50を歩く』によれば、両翼の先端には、それぞれ「城」「本城」の
          小字が残るとされています。いずれも、とりあえず現況下ではほぼ自然地形で、遺構
          らしきものは見当たりません。
           全体として、コンパクトながら東翼を除けばよく整備された城といえます。少なくとも、
          最終的な改修者が後北条氏であることが分かります。他方で、独立山でありながら
          全山を城域としておらず、実用性には疑問もあります。東翼の未熟さと絡めて、私は
          次の2通りの経緯が考えられると思います。1つは、小田原の役に備えて改修が加え
          られたものの、普請途中でタイムアップとなってしまった。もう1つは、早雲による奪取
          以降、断続的に改修されたものの、北条氏の伊豆相模支配が確立され、今川氏との
          関係も安定するにつれて、価値を失って打ち捨てられたとするものです。
           さらに、「城」「本城」の小字について考えてみると、狩野城が築かれたとされる平安
          末期には、まだ「曲輪」という概念もほとんどなく、城といっても独立山の上にまんべん
          なく立て籠もるといった程度のものだったのではないかと推測しています。
           ちなみに、絵師狩野派の祖狩野正信は、狩野介宗茂の子孫を称しており、現地には
          狩野派ゆかりの地と大々的に書かれています。ただ、正信自身は駿河ないし関東に
          散らばった狩野支族の出とされ、おそらくこの地に足を踏み入れたことはないと思われ
          ます。

           
 北東から狩野城山を望む。
主郭土塁上の石碑。 
 石碑の建つ主郭北辺の土塁。
主郭のようす。右手に西辺の土塁。 
 西辺の土塁先端の櫓台状の空間。
主郭下の腰曲輪を望む。 
 同上。
主郭西サイドの堀切。 
 主郭西1つ目の曲輪内の切れ込み様空堀。
主郭西1つ目の曲輪のようす。 
 主郭西1つ目の曲輪内部を遊歩道から望む。
二重空堀。 
 西2つ目の曲輪。
西2つ目の曲輪外側の堀切。 
 西翼先端、小字「城」付近のようす。
主郭東サイドの堀切。 
 東郭。
東郭内部の様子。 
 伝「出丸」。
出丸の段差。土塁跡か。 
 東翼先端、小字「本城」付近のようす。
井戸跡か。 
ただ、あちこちから水がしみ出しており、 
水の確保は比較的容易だったと思われます。 


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