興国寺城(こうこくじ) | |
別称 : 根古屋城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 今川氏か | |
遺構 : 曲輪、土塁、石塁、堀、櫓台 | |
交通 : JR東海道本線原駅または沼津駅から バスに乗り、「東根古屋」下車 |
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<沿革> 北条早雲(伊勢盛時)旗揚げの城として広く知られた城である。今川家の客将(今日では 幕府から直接派遣されたと考えられている)であった早雲は、甥にあたる今川龍王丸(後の 氏親)と分家の小鹿範満の家督争いを終息させた功により、長享元年(1487)に氏親から 富士下方十二郷を与えられ、興国寺城を居城としたとされる。ただし、早雲が興国寺城主で あったことを裏付ける良質の史料はなく、これを否定する向きもある。また、城主であったと しても、興国寺城が早雲によって築かれたのか、それともすでに存在していたのかも定かで ない。 明応二年(1493)、早雲は伊豆の堀越公方足利茶々丸を駆逐し(伊豆討入り)、韮山城を 新たな居城とした。興国寺領の扱いについては、このときに今川家に返上したとする説と、 引き続き支配したとする説があり、城の存否および処遇と合わせて詳らかでない。ただし、 いずれにせよ早雲の子氏綱の代までには、興国寺領は今川家に復している。 天文六年(1537)、氏親の子義元は今川・北条共通の敵であった甲斐の武田信虎と単独 で和睦し、信虎の娘を正室に迎えた。これに激怒した氏綱は駿河へ攻め入り、富士川以東 のいわゆる河東地域を制圧した(第一次河東の乱)。同年、興国寺城は武田方に寝返り、 信虎の娘の化粧料として今川家に譲渡されたともいわれる。ただし、北条氏が富士川寄り の吉原城をその後も保持していることから、興国寺城の離反や譲渡の信憑性には疑念が もたれる。 天文十四年(1545)、義元は氏綱の子氏康を山内・扇谷両上杉氏と挟撃する形で、河東 へと兵を進めた(第二次河東の乱)。義元勢は吉原城や長久保城を奪取したが、その間に ある興国寺城の動向については伝わっていない。一連の争いは、両上杉氏に包囲された 河越城の救出を優先した氏康が、河東地域の返還を条件として和睦を申し出たことで終結 した。 天文十八年(1549)、義元が城普請のために興国寺に移転を命じた判物写が残っており、 これが興国寺城の存在を明確に示す一次史料上の初出とされる。この文書でも、城が新規 に築かれたのか既存の城砦を拡張したのかは議論の余地があるが、前者であるとすると、 早雲旗揚げを初めこれ以前の興国寺城にまつわる事蹟はすべて事実でないことになる。 永禄十一年(1568)、甲斐の武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄して駿河へ侵攻すると、 氏康・氏政父子は義元の子氏真を援けた。結局、今川氏は信玄に協同した徳川家康により 滅ぼされたが、北条氏は河東を支配下に収めた。興国寺城には重臣垪和氏続が送られ、 元亀二年(1571)に甲相同盟が改めて成立するまでの間、何度か武田軍の攻撃を退けて いる。同盟の成立要件として、興国寺城は武田氏に譲られた。 譲渡された当初は駿河国江尻城代穴山梅雪の家臣保坂掃部が城将となったとされる。 天正五年(1577)時点では、武田水軍の将であった向井(向)正重が在城していた。北条・ 武田両氏の関係が再び悪化した同七年(1579)、信玄の子勝頼は対北条の新たな拠点と して三枚橋城を築き、興国寺城も再び前線の城となった。翌八年(1580)には、天神ヶ尾砦 の門を移築するなど改修工事が行われている。翌九年(1581)には北条方の大藤政信が 興国寺城を攻めたが、落城には至らなかった。 翌天正十年(1582)に織田信長が武田氏を攻め滅すと、興国寺城主であった曽根昌世は 降伏し、徳川家康配下としてそのまま留め置かれた。一説には梅雪とともに早くから内応を 約していたともいわれる。しかし、理由は不明だが同年中に昌世は徳川家を出奔した。後任 にはまず牧野康成の家臣稲垣長茂が入り、ほどなく竹谷松平清宗が2千貫で興国寺城主と なった。 天正十八年(1590)に家康が関東へ移封となると、興国寺は駿府城主中村一氏の所領と なり、その家臣河毛重次が城番となった。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにより中村家 が伯耆米子へ加増・転封となると、翌六年(1601)に徳川家直臣天野康景(三郎兵衛)が 1万石で興国寺藩主となった。 康景は、本多重次・高力清長とともに「三河三奉行」と称され、「仏高力 鬼作左 どちへん なきは天野三郎兵衛」と謳われ、自領でも治政に手腕を発揮した。慶長十一年(1607)、 康景の家臣が領内の竹木を盗んだとして、隣接する天領の農民を殺害した。農民が代官 井出正次に訴え出ると、康景は自分の家臣に義ありと反論した。これに対し、改めて幕府 から本多正純が康景のもとへ送られたが、正純の態度に激昂した康景は一族を引き連れ て出奔した。これにより興国寺藩は改易となり、興国寺城も廃城となった。 <手記> 北条早雲の出世城として、中世城郭としては知名度の高い興国寺城。愛鷹山から駿河 湾に伸びる入り組んだ丘陵の先端に位置しています。すぐ背後を東海道新幹線が走って いますが、公共交通機関で行くにはやや不便な場所にあります。逆に車なら、新東名の 駿河湾沼津SAに付属するスマートICを下りて数分の近さにあり、城内に駐車スペースも 用意されています。 今日では、城下には海まで平野が広がっていますが、当時は「浮島沼」と呼ばれる大小 多数の沼沢が点在していました。城の東にも蓮池という沼があり、北を除くその他の三方 は泥田になっていたそうです。蓮池には船溜まりがあったと伝えられ、海に出られたかは 怪しいですが、現状からは想像がつきにくい興国寺城の要害ぶりがうかがえます。また、 今も城下を東西に根方街道が走り、当時はそこから海沿いの道(江戸時代の東海道)に 向かう竹田道が分岐していたとされ、河東を横断する際に避けては通れない要衝だった ことも見てとれます。 主城域は国史跡に指定されたこともあり、更地となっていて見学者に開放されています。 本丸には穂見神社があり、南を除く三辺をぐるりと高々とした土塁が囲っています。北辺の 土塁中央は天守台と呼ばれ、礎石が残っています。ただ、配列を見るに高層建築の礎石 とは思えず、実際には天守ではなく守護神か何かが置かれていたものと推察されます。 もう1つの見どころは本丸背後の大堀切です。天守台がちょうど横矢状に張り出し、深く 掘り込まれた空堀はとても見ごたえがあります。その向こうには北曲輪が、そしてそこから 回り込むように蓮池を挟んだひとつ東側の峰先には清水曲輪があったとされていますが、 どちらも畑などの私有地となっていて立ち入りはできません。 興国寺城の主城域は、本丸から南の丘陵先端に向かって二の丸・三の丸と一二三段に 続いています。現在、3つの曲輪の境目は判然としませんが、発掘調査の結果、本丸には 丸馬出と櫓門が存在したとみられています。また土塁も、かつては少なくとも本丸の四周 をしっかり囲っていたようです。 三の丸については、根方街道が中心を貫通する形となっていますが、当時は城の南を 回り込んでいたようです。根古屋交差点の南東に三の丸の土塁がうっすら残っています。 また、交差点脇には小さな弁天池と弁財天があり、この城がかつて水に囲まれていたこと を示す貴重なよすがとなっています。 興国寺城については、いつ築かれたのか、本当に早雲が居城していたのかという点が 論題となっています。個人的には、天文十八年に義元が興国寺を移転させた際に「拡張」 されたのか、それとも「築城」されたのかがポイントと考えています。ここで注目したいのが 本丸の構造です。今日の天守台近辺の土塁は、いくらか盛り土されているものの、峰上 の北曲輪との高さの差はそれほどありません。対して、本丸内部の削平地面は、かなり 低く削られています。この点は本丸東西の土塁についても当てはまると思われます。この 三方削り残して深く抉るという造成は、城砦よりむしろ寺院によくみられるものです。すな わち、興国寺があったのはおそらくまさに本丸の場所であると推定されます。したがって、 義元によって「拡張」されたのであれば、それ以前の城の中心は別の曲輪にあったことに なります。そして実際に発掘調査の結果から、最初期の興国寺城は後の三の丸にあった とみられているそうです。 となると、天文十八年までの興国寺城は、微高地の先端にあるほとんど単郭の城だった ということになります。その程度の規模であれば、客将である早雲が在所としても不思議 ではありません。すくなくとも、早雲が興国寺城主であったことを積極的に否定する意見に 対する反批判の材料とはなるでしょう。 |
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駿河湾沼津SAから興国寺城方面を望む。 画面中央、ビニルハウスの先の林の陰が城跡。 |
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本丸を囲う土塁。 | |
穂見神社と背後の天守台土塁。 | |
天守台土塁の石垣。 | |
天守台頂部。 | |
天守台から本丸以下を俯瞰。 | |
本丸北西端の櫓台状土塁。 | |
本丸東辺の石火矢台と呼ばれる土塁。 | |
本丸背後の堀切。 | |
同堀切を堀底から。 | |
本丸東側の蓮池跡を見下ろす。 | |
二の丸のようす。 画面中央付近から、丸馬出跡とみられる 三日月堀が検出されたそうです。 |
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三の丸と二の丸の間。 段差が遺構なのかは不明です。 |
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三の丸を俯瞰。 道路の左手向こうまで曲輪内です。 |
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三の丸の土塁痕跡を望む。 | |
おまけ:興国寺城跡と富士山。 |