八王子城(はちおうじ) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 北条氏照 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、空堀、石垣等 | |
交通 : JR中央線/京王線高尾駅よりバス。 「霊園前」バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 八王子城は、滝山城に代わる北条氏照の居城として築かれた。築城年代および移城年代に ついては、元亀初年(1570)ごろから小田原の役の天正十八年(1590)の直近まで諸説あり、 判然としない。ただ、元亀以降であるという点については一致している。一般に、永禄十二年 (1569)に滝山城で武田信玄を迎え撃った際に防衛上の不利を悟ったことが、八王子築城の きっかけとなったといわれている。 八王子城は、北は案下道(現在の陣馬街道)、南は甲州街道、西は陣馬から小仏へ連なる 関東山地の峰までを城域とする、壮大な城郭網を構想して築かれたもので、北条氏滅亡時に おいてなお未完成であったとみられている。 天正十八年六月二十三日、小田原の役において北から侵入した前田利家・上杉景勝ら1万 5千の兵が八王子城を攻撃した。当時、氏照は小田原城に詰めており、城には城代横地監物 吉信、狩野一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守秀綱ら3千人ほどが籠っていた(多くは周辺 領内の非戦闘員であったともいわれる)。寄せ手は北と東の2方向から攻撃を開始して激戦と なったが、虚しく城はその日のうちに陥落した。とくに家範の奮戦はすさまじく、敵将の利家を して感嘆せしめたといわれる。城代の吉信は落ち延びたものの、逃げ切れず切腹した(その地 には祠が祀られたが、後にダム予定地となったため八王子神社脇に遷された)。氏照の正室 比佐をはじめ多くの婦女子も自害し、御主殿の滝は三日三晩血に染まったといわれる。 小田原城開城後、氏照は切腹となり、八王子城もそのまま廃城となった。 <手記> 八王子城は、日本百名城にも数えられ小田原の役での激戦と悲哀の伝説を残すことから、 わりと知られた城ではあります。しかし実際のところ、存在したのは20年足らずと短く、その 歴史の大部分は謎に包まれています。 また壮大な規模のゆえに未完成といわれており、城域の範囲については今なお諸説あり ます。上の地図に示したのは主城域と詰の城(大天主)および御主殿のみで、広大な城域の ほんの一部とされています。百名城に指名されてから登城口近くに駐車場が設けられ、以前 は難しかった車での訪城が可能となりました。 首都圏に近く手ごろなハイキングコースでもあるため、TVや雑誌でも取り上げられることの 多い八王子城ですが、メディアでもっとも目にするのは石垣や曳橋が復元された御主殿周辺 でしょう。ですが、この御主殿周辺は、私に言わせれば何とも不気味です。曳橋ですから、 有事の際には引き上げて通行不能にできなければなりませんが、復元された曳橋はそんな ことお構いなしの、立派な橋脚付欄干付の橋となっています。橋詰から御主殿入口にかけて は、これまた立派な石垣と石畳が続きます。極めつけは、御主殿入口の門が冠木門となって いることです。これだけ豪壮な曳橋、石垣、石畳と続いているにもかかわらず、ここだけ何故 か扉も付かない冠木門となっており、アンバランスなことこのうえありません。 一般的な登城ルートは、管理棟前からアシダ曲輪を抜けて登る新道ですが、御主殿(北東 隅の石碑には千畳敷と書かれています)の北東隅からも登る道があります。私は上りでは こちらのルートをおすすめします。新道は半分くらい石段となっている道ですが、その石段も だいぶくたびれているため、テンポよく歩くことができず足にきます。御主殿からのルートは、 土の道で歩きやすく、また途中梅園があり登城者の目を楽しませてもくれます。両道は金子 曲輪で一緒になります。また、さらなる上級愛好家には、御主殿北西隅から赤テープを頼り に登るルートをお勧めします。この道の中途には5段ほどの土止め石垣があり、おそらく城中 で原型をとどめる唯一の石垣と思われます。このルートは、山王台と呼ばれる曲輪を経て、 八王子神社の真下あたりにでます。 小宮曲輪の下あたりで1か所景色が開けるポイントがあり、パノラマ台などと呼ばれている そうです。逆に、ものすごく眺めの良い山であるにもかかわらず、視界が開けているのはこの 1か所のみです。後で管理棟で聞いた話では、国有林のためなかなか手が出せないとのこと。 サービスが行き届かないのであれば、さっさと地方自治体に管理権を渡してほしいものです。 このパノラマ台からは、冬の澄んだ日ならスカイツリーはもちろんのこと、遠く筑波山や房総 半島まで望めます。 主城域は、大きく本丸、小宮曲輪、松木曲輪の3つから成っています。小宮曲輪と松木曲輪 の間には、八王子の語源である八王子神社が祀られています。また、本丸と小宮曲輪にも それぞれ小規模な祠があります。いずれの曲輪も、規模は小さく、それほど多くの兵は駐留 できなかったであろうと推測されます。 本丸背後には、大天主と無名曲輪という2つの見どころがあるのですが、道が異なるので 迷わないよう注意が必要です。松木曲輪の下にポンプ付きの井戸があり、さらにその下で道 が二又に分かれます。右へ向かうと無名曲輪に至りますが、行き止まりでその先へは進め ません。左へ進むと、駒冷しと呼ばれる大きな堀切を経て、大天主と呼ばれる詰の城の曲輪 に着きます。大天主には、崩れた石積みが散乱しており、一角に「天守閣跡」の碑が立って います。「大天主」という言い回しから「天守閣跡」へと発展したと思われますが、私にはここ に天守建築があったとは考えられません。天守とは平時には権威の象徴として、戦時には 全体の指揮程度に使われるものです。つまり、天守は周囲から目立ち、かつ周囲への眺望 に優れていなければなりません。ところがこの大天主は、あまりに奥まったところにあるため まったく前記の条件を満たしていません。大天主の名称の由来は不明ですが、この曲輪は 天守でもまた詰の城でもなく、陣馬・小仏ラインと主城域を結ぶ連絡用のものではないかと 考えています。 さて、アシダ曲輪から登る場合は、鳥居の手前で新道と旧道に分かれます。新道は、金子 曲輪をはじめとする多くの雛壇状の曲輪群を抜ける道で、旧道はこれらをまったく通らない ルートです。普通、新道というと後世になって付け替えられたより通行しやすい道を指すもの ですが、八王子城の場合は明らかに新道が往時の正式ルートと思われます。なぜこちらが 新道と呼ばれるのか疑問ですが、旧道は沢伝いに登る道なので、あるいは城が築かれる 以前からあった八王子神社の参拝道なのかもしれません。 八王子城に関する最も大きな謎とされてきたのは、何の目的で築城し、移ったのかという 点です。その背景には、滝山城から八王子城への移城が、平山城から峻嶮な山城へという 当時のトレンドに逆行するものだということがあります。山城でも交通の要衝であれば、そこ まで不自然ではありませんが、八王子城は山里深く、主要な街道筋からはいずれも外れて います。 一般的には、その理由として前述のように滝山城の防衛上の不利を補うため、そして西方 の武田氏に備えるためといわれています。このうち、西に備えるためというのは批判の余地 のないように思います。当時、氏照領の南は小田原本領、北には弟氏邦、東には江戸城に 北条氏秀がいたとされ、直接外敵と接しているのは西側しかありませんでした。そのため、 居城が西寄りに移ったことはさほど不自然とはいえません。武田氏が滅びたのち、織田氏、 徳川氏、豊臣氏と、警戒すべき相手が常に西に存在し続けたことで、案下道と甲州街道を 同時に扼することのできる八王子城の軍略上の価値は、減退するどころか増大していった ものと推測されます。 他方で、滝山城が頼むに足りないので移ったとする見解には、疑問を感じます。滝山城は 平山城とはいえ、2千の兵で2万の武田軍に耐えた堅城であり、籠るに不利な城とは決して いえないと思われます。むしろ、峻嶮な八王子城は曲輪面積では滝山城に劣るとみられ、 大身領主の氏照にとって、戦時に駐屯できる兵が少なくなるという防衛上の不利を抱えて います。よって私は、八王子移城はつとめて軍略上の観点から計画されたのであり、滝山 城より守りやすいからという理由ではなかったものと考えています。 余談ですが、八王子城址を望む一番の絶景ポイントは、高尾山ケーブルカーの山頂駅前 だと思います。中央高速道路と圏央道のJCT越しに、峻険な八王子城山を斜め上から露わ に望むことができます。 |
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八王子城遠望。 | |
御主殿前の曳橋。 | |
御主殿虎口と冠木門。 | |
御主殿跡のようす。 | |
悲哀伝説の残る御主殿の滝。 飛び込んで自害するにはちょっと浅すぎるのでは…。 |
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本丸のようす。 | |
松木曲輪のようす。 中山家範が守将だったといわれています。 |
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小宮曲輪のようす。 狩野一庵が守将だったといわれています。 |
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パノラマ台からの眺望。 写真では分かりませんが、 画面内に東京、川崎、横浜のビル群が収まっています。 |
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八王子の地名の由来となった八王子神社。 | |
大天主跡のようす。 | |
駒冷しと呼ばれる大堀切。 | |
無名曲輪のようす。 | |
高丸のようす。 | |
金子曲輪のようす。 | |
金子曲輪下の雛壇上の曲輪群。 | |
おまけ:高尾山ケーブルカー山頂駅付近から八王子城山を望む。 |