幸谷城(こうや) | |
別称 : 増尾幸谷城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 相馬氏か | |
遺構 : 土塁、堀、曲輪跡、虎口、物見台 | |
交通 : 東武野田線増尾駅徒歩15分 | |
<沿革> 残存する遺構の状況や、敷地内に「馬場」の小字が残り、城山南東隅の旧家に「根小屋」 の屋号が伝わることなどから、中世城館跡とみられている。ただし、史料や伝承にはみられ ない城跡である。 現在のところ、鎌倉時代後期に相馬氏によって築かれたとする推定がなされている。とく に、幸谷城の北500mほどのところにある増尾城と同じく、相馬胤村の庶子師胤を築城主と する説が唱えられている。これは、胤村死後に師胤が胤村嫡男の胤氏と家督を争って敗れ、 師胤の母で胤村後妻の阿連尼に増尾村の継承が認められる形で幕府の裁定がなされた ことに依拠するものである。ただし、確証はなく、推測の域を出るものではない。 <手記> 幸谷城は、南から西へ大津川の支脈が細く入り込む台地の角に位置しています。現在は 宅地となっている北側にもかつては谷戸が切れ込んでいたそうで、もともとはコブ状にせり だした地形になっていたものと推測されます。お隣の松戸市にも同名の幸谷城があったと され、区別するために増尾幸谷城と呼ばれることもあるようです。 地元できつね山と呼ばれる城跡はほぼ全域が私有地なのですが、里山保存や緑化推進 などを目的とした柏市の「カシニワ制度」に登録されていて、一般に公開されているとともに、 市民団体によって定期的な手入れがなされています。 とはいえ、城内への入口は2ヶ所あるのですが、北側のそれは表札の掲げられた私邸の 入り口を抜けなければならず、西麓側の方は道が細くて分かりにくく(車からではおそらく 見つけられないでしょう)、『大和之古城』のダイさんとご一緒に歩いて偶然見つけられたと いったところです。 城は、東西方向に長方形の、土塁と堀に囲まれた簡素な縄張りをしています。北と南に それぞれ1つずつ曲輪が並んでいた可能性が指摘されているようですが、構造的に現下の 曲輪が主郭とみて間違いなさそうです。 土塁はそれほど高いものではなく、堀も小規模なもので、城というより居館に分類される ものと思われます。増尾城と比較して明らかに古めかしいつくりをしており、相馬氏が鎌倉 時代に拠ったものとするなら、増尾城ではなくこちらの方ではないかと感じさせます。 主郭から北東に少し離れたところに、物見台と呼ばれる独立した小丘があります。主郭 の北にもうひとつ曲輪があったとすれば、この物見台がその北東隅にあたると考えられて います。 ちなみに、私たちが訪れた第二土曜日は奇しくも月に一度の定期手入れの日だそうで、 市民団体の方にお話をうかがうことができました。軍手ひとつ持参すれば、誰でも手入れ には参加できるそうですので、たまには訪れるだけではなくて城跡を整備する側に回るの もいいな〜と感じました。自宅の近くであれば、の話ですが^^; |
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東側の谷戸越しに幸谷城址を望む。 | |
主郭北辺の堀と土塁。 | |
西辺の堀と土塁。 | |
北西隅の土塁越しに城内を望む。 | |
土塁南西隅のようす。 | |
南辺の虎口跡。 | |
南辺の堀跡。 | |
東辺虎口付近の土塁。 | |
物見台。 | |
主郭の手作り説明板。 |