松ヶ崎城(まつがさき) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 不明 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀、虎口、井戸、物見台 | |
交通 : JR常磐線北柏駅徒歩10分 | |
<沿革> 史料にはみられない城である。谷を挟んだ東側の丘には、根戸城や法花坊館をはじめ、 城郭・町場関連の小字や遺跡が広範囲にわたって見つかっている。松ヶ崎や根戸周辺は 手賀沼の最西端に位置しており、かつては城下まで直接船で乗り入れることができたと 考えられている。すなわち、松ヶ崎城は陸運と水運の結節点を扼するための城であったと 推測されている。 『本土寺大過去帳』には、「永正七年(1510)(中略)松崎二郎左エ門」とあり、松ヶ崎城 との関連も考えられるが、詳細は不明である。 <手記> 松ヶ崎城址は現在史跡公園化が進められているようで、私が訪れたときには地元の秋 祭りか何かの準備が行われていました。 舌状台地を利用して築かれた城ですが、口蓋垂状に膨らんだ地形の一部を使って方形 の主郭を置いているのが特徴です。とくに西辺と北辺には立派な土塁と堀が設けられて います。樹木が綺麗に伐採されているため、とても見学しやすく見応えがあります。逆に、 斜面側の南辺と西辺の造作はお粗末で、前者が堀を伴わない低い仕切り土塁のみで、 後者に至っては土塁も残っていません。北東隅には、古墳を転用した物見台があります。 南辺仕切り土塁の外側には、斜面の縁に沿った土塁がめぐっています。ただ、両者の 間隔は狭いので、本丸の外に二の郭、というほど意識して曲輪形成されているようには 感じられません。この点、『日本城郭大系』では単郭の城としています。 他方、『中世城館調査報告書集成』では大きく4つの曲輪からなる城とみています。先の 本丸外側の帯曲輪をU郭とし、峰続きの西側にV郭、W郭と並んでいるものと判断して いるようです。たしかに舌状台地を利用していることから、峰の根元を堀切って断絶する のが常道といえ、『集成』では2本の生活道路をこれに充当しているようです。現在生活 道路として舗装されている道が堀跡であるかどうかは私には判断しかねますが、堀切が あったとすればこのあたりだろうと思われる本丸西側の藪の中を探索した限り、ごく浅い 溝状の地形は認められたものの、現存する本丸空堀に匹敵するような明確なものは見つ かりませんでした。そもそも、それほど広く根元まで堀切って城域とするなら、それ以前に 台地先端部をしっかり曲輪としてくまなく造作するはずです。ところが、本丸の北側、台地 先端部の北半分はほぼ自然地形のままです。本丸の堀と土塁のほかは、基本的に防御 設備はすべて南方を向いており、北と西からの攻撃にはあまり意を払っているように感じ られません。したがって、私も『大系』と同じく、方形の主郭を基調とする単郭の城であった と考えています。ちなみに、『集成』掲載の縄張り図では、主郭をいくぶん台地の中心側に ずらして配置し、付随する帯曲輪(U郭)を実際より広く見せているように見受けられます。 台地南縁の土塁には虎口が開いていて、おそらく大手口であったと思われます。これを 出ると、斜面に沿って下りる道があり、途中に2、3段の腰曲輪がみられます。中腹くらい まで下りたところに松ヶ崎湧水があり、城の水の手であったものと推測されます。 個人的な直感としては、まず台地上に単郭方形の館城がつくられ、その後、南側にいく らか防御施設が増設されたのではないかと考えています。台地全体を取り立てるのでは なく、台地上に堀と土塁で囲まれた方形館を築くというやり方は、根戸城と共通しており、 後北条氏以前の比較的古い形態であると思われます。 現在の松ヶ崎城址は、先述のとおり樹木が伐採され、遺構も余計な手を加えることなく そのままに保存され、かつ説明板も随所に設置されており、史跡公園のお手本といって 良いほど丁寧な仕上がりとなっていると思います。 |
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松ヶ崎城址を南東から望む。 | |
物見台から主郭を見下ろす。 | |
古墳を利用した物見台。 | |
物見台脇の門跡。 | |
主郭西辺の虎口。 | |
主郭西辺の堀と土塁。 | |
主郭東辺の堀と土塁。 | |
主郭南辺の土塁。 | |
主郭外側、南縁の土塁と虎口。 | |
主郭西側、台地付け根付近の溝状地形。 | |
南側斜面の腰曲輪。 | |
松ヶ崎湧水。 | |
湧水直上の腰曲輪。 |