中城城(なかぐすく)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 先中城按司か
 遺構  : 石垣、水の手、門、拝所
 交通  : 那覇バスターミナルから路線バス与勝線(52番)、
       「安谷屋」バス停下車徒歩25分


       <沿革>
           詳しい築城の経緯は明らかでないが、14世紀後半ごろまでに先中城按司(さち
          なかぐずくあじ)が存在していたことから、それまでには築かれていたと考えられ
          ている。
           1430年、琉球国王尚巴志は座喜味城主の護佐丸盛春(ごさまるせいしゅん)に
          中城城の改修を命じた。護佐丸は伊覇按司三世の子で、大叔母にあたる眞鍋金
          は尚巴志の正室とされる。伊覇按司一世はもともと今帰仁城主の子であったが、
          庶流の羽地按司が下剋上により今帰仁城を奪い、北山王を名乗った。護佐丸は
          尚巴志の北山王国討伐で大いに活躍した建国の功臣であった。また、護佐丸の
          娘は尚巴志の五男で6代国王となった尚泰久の正室となり、その娘の百度踏揚
          (ももとふみあがり)は勝連城主阿麻和利(あまわり)に嫁いだ。
           1458年、阿麻和利は護佐丸に叛心ありと尚泰久王に報じた。尚泰久は義父の
          謀叛をすぐには信じなかったが、実際に護佐丸が兵馬を募っていることを知るに
          及んで、阿麻和利に討伐を命じた。中城城を囲まれた護佐丸は、二心のないこと
          を示すため、抵抗せず妻子とともに自刃して果てた。まもなく阿麻和利が尚泰久
          への反逆を企てるが、百度踏揚が従者の鬼大城(うにうふぐしく)に背負われて
          勝連城を脱出し、父王のもとへ走った。娘の報告を受けた尚泰久王は、鬼大城を
          大将に討伐軍を起こし、阿麻和利は勝連城に滅んだ。
           以上のいわゆる「護佐丸・阿麻和利の乱」の経緯は、1701年成立の史書『中山
          世譜』の記述による。他方で16〜17世紀にかけて編纂された『おもろさうし』には
          阿麻和利が英雄として讃えられていることなどから、乱の内容には疑問が呈され
          ている。
           護佐丸・阿麻和利の乱後の中城城主については一時的に定かでなくなるが、
          1469年に金丸(尚円王)のクーデターによって第二尚氏王統が成立すると、嫡子
          尚真が久米中城王子を称した。その後も、琉球王の子で中城王子を名乗る者が
          多数出ていることから、王族支配の城となったものと考えられる。
           1853年5月、黒船艦隊を率いるペリー提督は日本来航の前に琉球に寄港した。
          ペリー一行はこのとき中城城跡を視察し、土木技術水準の高さに驚いて報告書
          をしたためている。
 

      <手記>
           中城城は、首里城・今帰仁城・勝連城・座喜味城とともに世界遺産「琉球王国
          のグスク及び関連遺産群」に登録されています。首里城と勝連城を結ぶ直線の
          ちょうど中間付近に位置し、また沖縄東西の海を同時に見渡すことのできる要衝
          の城です。
           城跡は世界遺産登録もあって史跡整備が進められていますが、公共交通機関
          での訪城はやや難しく、レンタカーの利用が無難です。駐車場は無料ですが、
          入場料が必要です。
           城は頂上の一の郭を中心に、東に二の郭と三の郭、西に南の郭がひな壇状に
          続いていて、シャトル(杼)のような構造をしています。どの郭も比較的広いので、
          石垣が階段状に連なっているように見ることはできません。ですが、どの石垣も
          とても優美かつきっちりとしていて、ペリー提督が感嘆したというのも納得です。
           中城城の大きな特徴は、頂上の主郭に主殿があることです。こう書くと当たり
          前のように思われるかもしれませんが、首里城や今帰仁城、勝連城など沖縄の
          多くの城では、最上段の詰曲輪には御殿ではなく御嶽や拝所などの宗教施設
          が置かれています。たまたまとは思えず、やはり琉球では権威の確立に神的な
          要素が欠かせなかったのだと考えられます。ところが、中城城では一の郭から
          一段下がった南の郭に宗教施設が集められていて、広大な一の郭に比べると
          かなり慎ましやかな空間です。同じく護佐丸が築いた座喜味城でも最上段には
          御殿が建てられていたようで、彼の築城観ひいては権力感の現れのように思う
          のです。
           だからというわけではないのですが、忠臣の護佐丸と奸臣の阿麻和利という
          単純な二極対立の構図で両者の乱を捉えることには私も疑問を感じます。ここ
          からは私見ですが、護佐丸・阿麻和利の乱は尚泰久王が2人の排除を図った
          ものではないかと考えています。先王である第5代尚金福王の死後、王太子
          志魯と王弟布里の間で後継争いが勃発しました。この争いは首里城が焼ける
          ほど大きなものだったようで、結局両者が共倒れになり、尚金福および布里の
          弟の尚泰久が王位に就きました。
           つまり、尚泰久王の治世では尚氏の権力基盤がかなり揺らいでいたと推測
          されます。そのような状況下では、ともに縁戚に加えたとはいえ、勝連で半ば
          独立勢力化していた阿麻和利と、建国の功臣かつ王の義父として大きな発言
          力を有していたであろう護佐丸は、充分に王権を脅かす存在だったはずです。
          両者が滅んで得をしたのは、やはり尚泰久王その人です。阿麻和利の讒言は
          実際にあってそれを好機と捉えたのか、それとも初めからすべて仕組まれて
          いたのかは分かりませんが、どちらの討伐も尚泰久王が能動的に行ったもの
          とみるべきではないかと考えています。ただ、それよって自身の死後に金丸
          (尚円王)の下克上を阻止することができなくなったとすれば、歴史の皮肉とも
          いえるでしょう。
           
 馬場から三の郭を望む。
三の郭の石垣。 
 三の郭内のようす。
北の郭の大井戸(ウフガー)。 
 大井戸へ降りる階段と取り巻き石垣。
二の郭越しに一の郭の石垣を望む。 
 二の郭から三の郭方面を俯瞰。
一の郭の門(奥に反対側の門も見えます)。 
 一の郭から二の郭方面を俯瞰。
一の郭の正殿跡。 
 一の郭に積まれた修復工事に伴う石材。
一の郭からの眺望。 
 南の郭の拝所群。
南の郭の城門跡。 
 西の郭から見る一の郭の石垣。
城の西辺にある正門跡。 
 鍛冶施設と伝わるカンジャーガマ。
おまけ:城跡の脇の中城高原ホテルの廃墟 


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