比企氏館(ひきし)
 別称  : 比企館、比企家屋敷
 分類  : 平城
 築城者: 比企氏
 遺構  : 堀、土塁か
 交通  : 東武東上線東松山駅または若葉駅から
      バスに乗り、「上中山」下車徒歩5分


       <沿革>
           戦国時代から江戸時代初期にかけての、比企氏の居館と伝わる。比企氏といえば、源頼朝の
          乳母比企尼の一族が有名だが、建仁三年(1203)の比企能員の変により滅亡した。永禄四年
          (1561)に至り、岩付城主太田資正から「比企左馬助」に宛てて、その戦功を賞し、比企郡代の
          地位や所領を安堵する旨の書状が複数発給されている。館跡とされる金剛寺は、寺伝によれば
          比企左馬助則員の中興とされる。本尊の阿弥陀如来は則員の父左馬助政員の持仏と伝わり、
          則員が元和二年(1616)に59歳で没していることから、資正の書状に見える左馬助は比企政員
          を指すと推定される。比企能員の変から政員に至る経緯や系譜は定かでなく、当館がいつごろ
          誰に築かれたのかも不明である。
           天正十五年(1587)の上田憲定の書状にも比企左馬助の名が見られ、比企氏が求めた所領
          の一部交換を憲定が認める内容となっている。憲定は資正の義理の従兄弟にあたる上田朝直
          の子で、北条氏に属して松山城を居城としていた。松山城は永禄六年(1563)に北条氏に攻め
          落とされ、翌七年(1564)には資正が親北条派の嫡男氏資に岩付城を追われている。比企氏は
          この間に北条氏に服属し、その後、同十二年(1569)に松山城主となった上田氏の配下に付け
          られたものと推察される。
           北条氏の滅亡後は、則員の子義久が関東に入国した徳川家康に仕え、後に旗本となった。
          館もそのまま使用されたものと思われるが、詳細は不明である。義久の跡は重員、久員と続い
          たが、次の稚久の代に改易となり、比企家は帰農したとされる。


       <手記>
           金剛寺の本堂右手奥にある大日堂の背後に、土塁状に高まった比企家歴代の墓地があり
          ます。その手前は空堀になっていて、館跡の遺構のようにもみえます。ただしその場合、館は
          境内ではなくその北側にあったことになります。
           寺伝によれば、金剛寺は天正年間(1573〜92)の中興とされることから、あるいは同十八年
          (1590)の小田原の役で北条氏が滅んだ際に則員も禄を失い、館の土地を寺に寄進したとも
          考えられます。改めて義久が家康に仕えたとなれば、旗本比企家の屋敷は別に設けられたと
          みることもできるでしょう。東側が低湿地となっていて、在地領主の居館としてはありうる地形
          ではありますが、戦国期比企氏の来歴やその居所については、まだ謎が多いといえます。
           ちなみに、比企家自体は金剛寺の檀家として存続しているようで、大日堂の脇には平成に
          なって比企さんが寄進した手水鉢がありました。

           
 金剛寺本堂。
大日堂。 
 大日堂裏手の、比企家墓所下の空堀。
同上。 
 比企家歴代墓所。


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