中山陣屋(なかやま) | |
別称 : 中山小屋場、秋元陣屋 | |
分類 : 陣屋 | |
築城者: 秋元凉朝 | |
遺構 : なし | |
交通 : 東武東上線東松山駅または若葉駅から バスに乗り、「南戸守」下車徒歩5分 |
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<沿革> 明和四年(1767)、老中を辞した秋元但馬守凉朝は川越藩6万石から同石で山形藩への 転封を命じられた。その際、川島領5千石は飛び地として残されたため、遠隔地支配のため の役所が中山に設けられた。 天保十二年(1841)、川島領は川越藩に組み入れられた。これは、川越藩主松平斉典が 三方領知替えを画策したものの、転封予定先の庄内藩で領民を挙げての反対運動が巻き 起こったために頓挫し、代替案として川越藩が2万石の加増を受けたことによる。これにより、 中山の陣屋は役目を失って廃止されたとされる。 ちなみに、『新編武蔵風土記稿』中山村の項には、「陣屋」ではなく「小屋場」と記載されて いる。同書は、川島領がまだ山形藩領であった文政十三年(1830)の編纂であることから、 少なくとも当時は「小屋場」と呼ばれていたことになる。 <手記> 川島町立中山小学校が、陣屋の跡とされています。表通りに面した校門脇に、大正時代 に建てられた石碑があります。ただ、塀の向こうにあるうえ校舎側を向いていることから、 敷地内に入らないと碑文を読むことはできません。事情を説明すれば通してもらえたとは 思いますが、校門は閉じられ、平日の日中で子供たちの元気な声も響き渡るなか、業務を 妨げてまで拝見するのは悪いと思い、外周だけうかがって退散しました。 ほかには、取り立てて見るものはありません。そもそも、江戸時代も中期の「小屋場」と 呼ばれる程度の施設ですから、さして防御設備などもなく、遺構なども望めないでしょう。 |
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中山小学校内の石碑を望む。 |