川越城(かわごえ)
 別称  : 河越城、初雁城、霧隠城
 分類  : 平城
 築城者: 上杉持朝
 遺構  : 御殿、土塁、堀、櫓台
 交通  : 西武新宿線本川越駅徒歩15分


       <沿革>
           康正二年(1456)、享徳の乱に際して古河公方足利成氏と対立した扇谷上杉持朝
          は、家宰太田道真・道灌父子に江戸城と川越城の築城を命じた。川越城は翌長禄
          元年(1457)に完成し、以降扇谷上杉氏累代の居城となった。
           長享二年(1488)、長享の乱で扇谷上杉定正と敵対した宗家筋の山内上杉顕定
          は、扇谷上杉氏の拠点である糟屋館を一気に陥れるべく、1千の兵を率いて鉢形城
          を発った。これを知った定正はわずか2百騎を率いて川越城から急行し、糟屋近郊の
          実蒔原で顕定軍を襲い、勝利した(実蒔原の戦い)。
           明応六年(1497)、顕定は川越城攻略を期して河越館跡に陣を布いた(上戸陣)。
          しかし、城は一向に落ちず、7年にわたって睨み合いが続いた。永正元年(1504)、
          越後守護代長尾能景の援軍を得た顕定は、椚田城実田城を攻め落とし、返す刀
          で川越城を囲んだ。扇谷上杉朝良は降伏に追い込まれ、長享の乱は終結した。
           天文六年(1537)、朝良の跡を継いでいた甥の朝興が死去し、その子朝定が13歳
          で当主となると、これを機とみた北条氏綱の攻勢に遭った。同年中に川越城が攻め
          落とされ、朝定は武州松山城へ退いた。
           天文十四年(1545)、朝定は山内上杉憲政や古河公方足利晴氏らと反北条連合
          軍を結成し、8万の大軍で川越城を囲んだ。川越城主北条綱成は3千の兵で籠城し、
          半年もの間持ち堪えた。翌十五年(1546)四月二十日夜、8千の兵を率いて後詰に
          到着した北条氏康は、3手にわかれて連合軍を急襲した。長陣に倦んで緩んでいた
          連合軍は大混乱に陥り、乱戦のなかで朝定が戦死した。これにより、扇谷上杉氏は
          一夜にして滅亡したとされる。以上が、世にいう三大夜戦として名高い河越夜戦で
          あるが、その内容は後世の軍記物に拠るところが大きく、実際の兵数や戦いの経過
          についてはいくつか疑問が呈されている。ただ、難波田憲重や倉賀野行政など重臣
          クラスの武将の戦死が目立つことから、激戦であったことは間違いないと思われる。
          戦後、川越城主には北条家重臣大道寺氏が代々任じられ、その下に河越衆が形成
          された。
           天正十八年(1590)の小田原の役において、川越城主大道寺政繁は松井田城を
          守備していたが、豊臣勢に囲まれ降伏した。城主不在の川越城は、前田利家軍に
          攻め落とされた。役後、政繁は開戦責任を問われ、河越館跡に建つ常楽寺で切腹
          を命じられた。同年に徳川家康が関東に入国すると、酒井重忠が1万石で川越城主
          に任じられた。
           関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)、重忠は厩橋城へ移り、川越はしばらく徳川
          家直轄領となった。同十四年(1609)、重忠の弟忠利が2万石で川越藩主となった。
          忠利の子忠勝は10万石にまで加増を受け、寛永十一年(1634)に小浜藩へ移封と
          なった。
           その後、堀田正盛1代を経て知恵伊豆こと大河内松平信綱が入封した。信綱の代
          に、川越城は中曲輪や外曲輪をはじめとする大拡張を受け、現在の縄張りが完成
          した。信綱の孫信輝の代に古河へ転封となり、その後は柳沢吉保1代、秋元家4代、
          越前松平家7代、桜井松平家2代を経て明治維新を迎えた。越前松平家を除いては、
          出世城というより出世を果たした者が川越に封じられている。越前松平家について
          も、家康の血を引く最有力親藩の1つであり、江戸に近い川越がいかに重要視され
          ていたかがわかる。
           なお、一部が現存する本丸御殿は、越前松平家4代藩主斉典によって嘉永元年
          (1848)に建てられたものである。


       <手記>
           川越城は、南西から伸びる入間川の河岸丘陵の突端に位置しています。新河岸
          川に三方を囲まれた平城のようにみえますが、これは近代の河川改修によるもので、
          かつては城の西から北へ赤間川が流れ、東の伊佐沼に流入していました。新河岸
          川はこの伊佐沼を源流とし、南へ流出していました。古地図をみると、川越城が北の
          赤間川と南の遊女川の谷戸に挟まれた舌状台地に築かれていたことがわかります。
          もっと広い目で見ると、川越一帯は入間川に三方を囲まれた沖積地となっており、
          とくに東側は伊佐沼に代表される湿地帯となっていて、天然の要害をなしていたこと
          がうかがえます。
           築城以来400年ほどにわたって武蔵の中心地の1つであった川越城ですが、今に
          残る遺構は残念ながら多いとはいえません。とはいえ、本丸御殿建築が残っている
          のは川越城と高知城だけということですから、貴重な文化財といえます。
           川越城の最奥の曲輪は本丸ではなく、三芳野神社の鎮座する天神曲輪となって
          います。この神社は築城前から存在していたとされ、江戸時代には一般にも限定的
          に開かれていました。ただ当然ながら、本丸の奥にあるということでチェックが厳しく、
          「行きはよいよい 帰りはこわい」の童謡「とおりゃんせ」の舞台とされています。境内
          には土塁と思われる高所があり、貴重な遺構であると思われます。
           また、天守の代用とされた本丸南西隅の富士見櫓跡が残り、本丸南の旧田郭跡
          側から登ることができます。櫓跡の外側から見上げると、川越城がそこそこの高低差
          をもつ台地の城であったことが実感できます。
           本丸から市役所へ向かう道沿いには、中曲輪の堀跡が「中ノ門堀」として整備され
          ており、模擬の塀や門が建てられています。市役所前が大手門跡で、敷地内に石碑
          と太田道灌像が立っています。
           川越というと、今日では城下町の蔵造りの街並みの方が有名で、都心から日帰り
          で気軽に行ける観光地といった位置づけにあります。城下町からはやや離れている
          ためか、城跡まで訪れる観光客はぐっと減るような感じを受けます。せっかくの観光
          資源ですから、今後整備がより進められることを期待します。
           なお、近世までは「河越」の表記が使われていましたが、ここでは便宜上「川越」で
          統一しています。

           
 本丸御殿玄関。
中ノ門堀。 
 
 富士見櫓台を見上げる。
富士見櫓台下の堀跡地形。 
 三芳野神社本殿裏の土塁状地形。
三芳野神社境内の土塁状地形。 
 大手門跡石碑と太田道灌像。
おまけ:蔵造りの町並み。 


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