杵築城(きつき)
 別称  : 木付城、勝山城、台山城、臥牛城
 分類  : 平山城
 築城者: 木付頼直
 遺構  : 堀
 交通  : JR日豊本線杵築駅よりバス
      「市民会館前」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           応永元年(1394)、木付頼直によって竹ノ尾城に代わる居城として築かれた。木付氏は大友氏
          の支流で、大友親秀の六男親重にはじまる。頼直は親重の曾孫にあたる。
           天正十四年(1586)末、島津軍が豊後に侵攻すると、大友義統は府内を棄てて龍王に逃れた。
          島津勢は北上し、新納忠元率いる一軍が木付城を囲んだ。城将木付鎮直は、三方を海と断崖に
          囲まれた要害の木付城をよく守り、2か月にわたって持ちこたえた。翌十五年(1587)二月に豊臣
          秀吉の援軍出立の報を受け、島津軍は迎撃態勢をとるため豊後の兵をまとめて撤退した。鎮直
          は退く新納軍を追って、多くの兵を討ち取った。同年、秀吉によって九州平定がなされると、義統
          は鎮直の活躍を喜んで木付城を勝山城と呼んだ。
           文禄二年(1593)、文禄の役における鳳山の戦いで鎮直の孫直清は討ち死にし、息子の死に
          悲嘆した鎮直の子統直は門司の浦で入水自殺した。この戦いでの失態を理由に義統(吉統)も
          改易となり、子と孫そして主家も失った鎮直夫妻は、木付城内で自害した。これにより、木付氏は
          滅亡したとされる。
           大友家の除国後、前田玄以ついで宮部継潤が木付城主となった。しかし、所領を与えられたと
          いうよりは、旧大友領の検地を任されたという面が強いと思われる。文禄五年(1596)、杉原長房
          が木付城に入ったが、慶長三年(1598)に但馬豊岡城へ移った。
           翌慶長四年(1599)、丹後田辺城主細川忠興が木付6万石を加増された。飛び地であったので、
          重臣松井康之と有吉四郎左衛門(立行)を城代に派遣した。翌五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、
          忠興は東軍に属し、木付城は豊後で唯一の東軍の城となった(本戦後に寝返った大名を除く)。
          忠興は両城代に対して、兵をまとめて田辺城へ来るよう指示したが、西軍の援助を受けて旧領
          回復を図る大友吉統が豊後に上陸したとの報を受け、両名は渡海を諦めた。西軍の毛利輝元と
          宇喜多秀家は木付城に退城を勧告したが、両名はこれを拒否した。
           同年九月十日、吉弘統幸率いる大友勢200人余が木付城を攻めんと杵築と日出の間の辻の堂
          に陣を張った。その夜、統幸が木付城下に迫ると、内応を約束していた大友旧臣都甲兵部や野原
          太郎左衛門らが城内外に火を放ち、吉弘勢を引き入れた。籠城方は必死に防戦し、逆に寄せ手の
          柴田統生を討ち取り、吉弘勢を押し返した。垣見一直の富来城を攻めていた黒田如水は、木付城
          へ援軍を送った。利なしとみた統幸は別府へ撤退し、大友本隊と合流した。同月十三日、木付城兵
          は黒田勢と合流し、別府石垣原で大友軍と合戦に及んだ(石垣原の戦い)。この戦いで大友軍は
          大敗し、豊後は如水ら東軍が席巻した。
           戦後、忠興は豊前一国34万石を与えられ、木付6万石もそのまま細川領に留め置かれた。忠興
          は中津城を居城とし(後に小倉城を築いて移転)、木付城主には改めて康之が任じられた。寛永
          九年(1632)、細川家が肥後熊本へ転封となると、小笠原忠真の弟忠知が木付4万石で木付城に
          入り、木付藩を立藩した。ちなみに、忠知の姉は忠興の子忠利の妻であり、兄忠真は同時に小倉
          藩主となった。正保二年(1645)、忠知は三河吉田へ転封となった。代わって、能見松平英親が
          豊後高田から3万2千石で木付に転封となった。英親は台山の北西麓に御殿を築き、それまでの
          山城部を廃した。本丸の天守はすでに慶長十三年(1608)に落雷で焼失しており、再建されること
          はなかった。
           正徳二年(1712)、将軍徳川家宣から3代藩主松平重休に朱印状が下されたが、そのなかには
          「豊後国杵築領国埼速見弐郡」と記されていた。これを見た藩は、幕府に願い出て同年より「木付」
          を「杵築」と改めた。これが、「杵築」の表記のはじまりである。朱印状の誤りが、故意であったのか
          単なるミスであったのかは、今なお定かでない。また国崎郡(国東郡)についても、上記のとおり
          「国埼」と記されており、これも藩政を通じて「国埼郡」とされた。杵築藩は、英親以下10代を数えて
          明治維新を迎えた。

          
       <手記>
           杵築城は、国東半島南部の、八坂川と高山川に挟まれた岬状の独立丘上に築かれた城です。
          浸食岸と海に囲まれた要害絶佳の城です。ただし、上記の通り藩政期のほとんどを通じて山城部
          は使用されていませんでした。そのせいか、城山公園となっている山城部には、まったくといって
          よいほど遺構が残っていません。縄張り図によると、山城部は4つか5つの曲輪に分かれ、曲輪間
          には空堀が設けられていたようですが、今日では堀は残っておらず、曲輪さえ不明瞭で境目すら
          分からなくなっています。本丸には3層の鉄筋コンクリート製模擬天守が建てられていますが、その
          天守台も、どうも当時の遺構とは思えません。天守からの眺望はなかなかのもので、遠く別府湾の
          向こうに鶴崎の工業地帯が望めました。
           杵築城で唯一確実と思われる遺構は、城山公園登山口にある、山麓の水濠です。この水濠は、
          かつては山麓の藩主邸をぐるりと囲っていたようですが、今では登山口のアクセントのような扱い
          となっています。
           杵築の観光地としての魅力は、むしろ城下町にあります。杵築城下は、城の西に東西に延びる
          北台・南台という2つの舌状台地と、その間の谷からなっています。台地には武家屋敷、谷間には
          商人町という風に分けられていたようで、現在のメインストリートはこの谷間を通っています。3つの
          エリアともなかなか風情よく整備されていて、武家屋敷の建ち並ぶ台地から商人町の谷を挟んで
          向こう側の武家屋敷群を望むという構図は、杵築を代表する風景となっています。
           杵築は、鉄道駅からも高速ICからもやや離れており、交通の便がよいとは言い難いところにあり
          ます。ですが、1点だけ交通上有利な点があります。それは、大分空港からは近いということです。
          大分空港は国東半島の東端にあり、大分市街からはかなり遠いところにあります。直線距離では
          それほどではないのですが、別府湾を大きく迂回しなければならないので、移動距離は相当あり
          ます。そして、大分空港から別府や大分市街へ向かうには、必ず杵築を通らなければなりません。
          したがって、空から別府や大分へ旅行される際には、ちょっと杵築に寄ってみるとちょうど良いので
          はないかと思います。

           
 南台から杵築城址(山城部)を望む。
模擬天守。 
 天守からの眺望。
 画面中央の台地が南台。
空堀跡の段差か。 
 同上。
山麓の水濠。 
 同上
武家屋敷群(北台)。 
 北台から谷間の商人町越しに南台を望む。


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