剣吉城(けんよし)
 別称  : 大館
 分類  : 平山城
 築城者: 北氏
 遺構  : 堀跡か
 交通  : いわて銀河鉄道剣吉駅徒歩10分


       <沿革>
           南部氏重臣・北氏の居城である。北氏は承久三年(1221)の承久の乱で幕府方に属した
          南部氏3代南部時実の四男・孫三郎宗実を祖とし、当初は剣吉氏を称したとされる。ただし、
          戦国時代後期に至るまでの系譜は不明で、また近年は南部氏が奥州に所領を得るのは、
          鎌倉時代末期であったとする説が呈されている。剣吉宗実が実在したとすれば、剣吉城は
          早ければ鎌倉時代中期に築かれていたことになるが、築城時期は定かでない。
           三戸南部氏21代とされる南部信義が死去すると、その翌日に男子が生まれたが、家督は
          信義の弟・政康が継ぎ、男子は母方の剣吉氏(北氏)に預けられて北致愛と名乗ったと伝え
          られる。北の姓は、南部氏の居城の北に館を構えていたことによるとされる。
           致愛の子・信愛は、天正十年(1582)に南部氏当主・南部晴政・晴継父子が没した際に、
          同じく一族重鎮の南長義と共に、晴政の従弟とも甥ともいわれる田子信直を強力に推した
          ことで知られる(晴政・晴継没年には元亀三年(1572)説あり)。さらに有力支族の八戸政栄
          を引き入れ信直を家督に据えることに成功し、反対派の九戸政実が同十九年(1591年)の
          九戸政実の乱で滅ぶと、信直の最側近として地位を確固たるものにした。慶長三年(1598)
          には、花巻城代を務めていた次男・秀愛が病没し、その職を引き継いでいる。
           信愛が慶長十八年(1613)に91歳で世を去ると、北氏は数家に分かれて盛岡藩士として
          存続した。剣吉城の廃城時期は不明である。


       <手記>
           2023年3月31日を以て閉校となった剣吉小学校が剣吉城跡で、山ごと大きく削り取られて
          おり、中心部は消滅しているようです。校舎背後の階段を登ると剣吉城址公園があり、眺望
          に優れるものの、やはり原地形を残しているかは定かでありません。
           公園の裏手は堀底道となっており、竪堀および堀切のようにも見えます。ただ、位置的に
          やや疑問もあり、遺構であるかどうかは留保が必要と思われます。また『日本城郭大系』に
          よれば、鉄道の東側に小古館があり、平時の居館とみられるとありますが、どこにあるのか
          具体的には分かりませんでした。
           さて、南部氏周辺の系図には不明な点が多々見られますが、北氏の出自についても同様
          です。北姓の由来となった南部氏の居城とは、一般的には三戸城を指すようですが、私見
          としてはその前の居城である聖寿寺館ではないかと考えています。理由としては方角由来
          の南部家臣には北・東・南はあるものの西はみられず、聖寿寺館も西側は要害の谷で屋敷
          を設けるには不向きである一方、他の三方には十分な平地があるという点が挙げられます。
          逆に、三戸城は西側が大手であり、北と東はそれぞれ熊原川と馬淵川に現れているため、
          西家のみ存在しない事実との整合性が取れないと思われるのです。
           したがって、北氏は南部氏が聖寿寺館にあった時代に成立し、剣吉城はそれ以前に築か
          れていたとするのが、論理的には妥当であると考えています。

           
 旧剣吉小学校校舎裏の
 「剣吉城址公園」標柱。
剣吉城址公園のようす。 
 公園裏手の堀底道。竪堀か。
同じく堀切か。 
 公園からの眺望。


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