木田余城(きだまり) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 信太範宗 | |
遺構 : 土塁・堀跡か | |
交通 : JR常磐線土浦駅よりバス 「湖北1丁目」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 木田余城はもともと木田余台の丘上の字「城の内」というところにあったが、信太伊勢守範宗が 現在の地に新城を築いて移ったとされる。信太氏は紀氏の後裔といわれ、紀貞頼が信太荘司と して常陸国に下向したのがはじまりとされる。信太氏は小田氏の古くからの重臣で、範宗の妻は 主君小田政治の妹とされる。 範宗は、政治の子氏治と不和になり、天文二十三年(1554)に氏治の命令を受けた菅谷勝貞 (その子政貞とも)によって土浦城で謀殺されたと伝わる。ただし、範宗殺害については永禄十二 年(1569)の手這坂の戦いの後とする説もある。『烟田日記』には、永禄十三年(1570)の一月に 氏治が木田余城主「信田某」を土浦城で殺害したことが記されている。また、佐竹氏側の手這坂 の戦いに関する史料には、「信田伊勢守」が決戦を避け撤兵することを氏治に進言したとある。2つ の「信田」氏が範宗を指すとすると、範宗は手這坂の戦いに消極的であり、同戦の敗戦後氏治に 疎まれて殺害されたものと類推できる。また、天文二十三年に殺されたとすれば、その後も一族 の誰かが木田余城主を継ぎ、永禄十三年に再び謀殺されたという可能性も考えなければならない。 いずれにせよ、木田余城主信太範宗が主君小田氏治に殺されたという事実は変わらないようだ。 ちなみに、菅谷勝貞は範宗の叔父信太範貞の養子となっていたとされる。 信太氏謀殺後、木田余城は菅谷氏の持ち城となった。手這坂の戦いでの敗戦によって、氏治は 居城小田城を失い、菅谷氏の土浦城に身を寄せた。以降、氏治は土浦城や木田余城を仮の居城 として行き来していたとされる。氏治は勝貞・政貞父子の補佐を受けながら、小田城を奪還すべく 佐竹義重と争うが、逆に追い詰められていった。天正六年(1578)、佐竹軍との激しい攻防の末に 木田余城は落城し、義重によって徹底的に破壊された。 <手記> 現在、木田余城址は常磐線の線路と車両基地に中央を貫かれている格好となっており、遺構の 確認は困難です。線路の南側に説明板が設置されています。また、この説明板の裏から線路を くぐって階段を上ると、線路と基地の間に肩身狭そうに城址碑が建っています。その両脇には2体 の石仏があり、水が供えられているので、おそらく範宗らの供養碑なのでしょう。 説明板北東の踏切脇には、土塁のような盛り上がりがあります。古絵図によれば、このあたりが 城の北東隅になるということで、遺構である可能性は十分考えられます。踏切を渡って城の北辺に でると、不自然に水を湛えた池があります。また北辺の道路の城側は道路より一段低くなっており、 これら総じて北辺の堀跡であると推測されます。 全体的に畑や住宅や線路となって徹底的に破壊されていますが、よくよくじっくり歩いてみると、 そこかしこに痕跡を見つけられるような気がします。 ちなみに、上の地図にある田んぼマークは、すべて茨城特産のレンコン畑です。表面上は水田と まったく変わりませんが、こちらは年中水を張っているようです。3月中ごろに訪れましたが、満々と 水を湛えたレンコン畑が見渡す限りに広がっており、滅多にみられない勇壮な景観だと感じました。 さらに全くの余談ですが、コーエーの信長の野望シリーズの「天下創世」では、ひさしぶりに大名 扱いとなった小田氏の居城がなぜか一貫して木田余城だったことをよく覚えています。 |
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木田余城址説明板。 | |
木田余城址碑。 | |
土塁跡か。北東隅付近。 | |
堀跡か。 | |
北辺の堀跡と思しき低まり。 |