土浦城(つちうら)
 別称  : 亀城
 分類  : 平城
 築城者: 若泉(今泉)三郎
 遺構  : 門、曲輪、水堀、土塁
 交通  : JR常磐線土浦駅徒歩10分


       <沿革>
           小田氏家臣若泉(今泉)三郎が、永享年間1429〜41)に築いたとされる。三郎は、
          長禄三年(1459)から3年かけて桜川の河道を現在の位置に付け替えたといわれる。
          また、平安時代に平将門が城砦を構えたとも伝えられるが、伝説の域を出ない。
           永正十三年(1516)、城主若泉五郎左衛門は、小田氏家臣の菅谷勝貞に城を攻め
          取られた。小田氏の命であったともいわれる。小田家臣信太範貞が城主となったが、
          後に勝貞が子のない範貞の養子となって城主を継いだ。伝承によれば、菅谷氏は
          信太氏の仲介で小田氏に仕えたとされるが、確かなことは明らかでない。菅谷氏は
          赤松氏の一族で、信太氏は紀氏の流れを汲むとされる。勝貞は、自身が小田家中で
          地位を固める内に菅谷姓に復したとされる。
           弘治二年(1556)、北条氏康の助勢を得た結城政勝が小田氏治を攻めると、氏治は
          居城の小田城を棄てて土浦城へ撤退した。同年中に氏治は小田城を奪還したが、
          翌三〜四年(1557〜8)にかけて、今度は佐竹義昭の支援を受けた多賀谷氏の攻勢
          を受け、氏治は土浦へ避難しては小田城を奪い返しを繰り返した。
           永禄五年(1562)に氏治が北条氏と同盟を結ぶと、氏治は佐竹・上杉ラインの圧迫
          に悩まされるようになった。同七年(1564)に上杉・佐竹連合軍に敗れると、氏治は
          再び小田城を棄てて藤沢城へ、ついで土浦城へと逃れた。まもなく一度は小田城を
          奪還できたものの、同年中に再び敗れて土浦城へ撤退した。永禄十二年(1569)の
          手這坂の戦いで、氏治は佐竹勢に完敗し、小田城も別動隊の真壁氏幹に奪われて
          しまった。氏治は藤沢城から土浦城へと退いたが、以後小田城主に返り咲くことは
          なかった。このとき、『天庵記』によれば信太範宗が土浦城主であり、範宗は手這坂
          の戦いに批判的であったため、氏治は範宗を謀殺して土浦城に入ったと伝えられる。
          菅谷氏と信太氏の間で土浦城主の交代があったのかなど、詳細は明らかでない。
          また、範宗は土浦城主ではなく木田余城主で暗殺の時期も天文二十三年(1554)
          とする伝承もある。氏治はその後も土浦城や木田余城を拠点に、勝貞・政貞父子の
          補佐を受けて佐竹氏と争うが、逆に佐竹義重に追い詰められていった。天正六年
          (1578)には木田余城が落城し、同十一年(1583)に至って氏治は完全に佐竹氏に
          降伏した。氏治は手子生城へ移り、菅谷氏が再び土浦城主に収まった。
           天正十八年(1590)の小田原の役で、氏治は小田城奪還を図って豊臣方の佐竹氏
          を攻撃したため、戦後所領を没収された。小田領は関東に入封した徳川家康の領地
          となった。土浦城は結城晴朝の養子となった家康の次男秀康の支城となり、多賀谷
          村広が城代を務めたとされる。
           慶長六年(1601)に秀康が越前へ転封となると、土浦城には藤井松平信一が3万
          5千石で入った。養子の信吉の代には4万石となり、2人の時代に近世城郭としての
          縄張りと城下町の原型が形成された。元和三年(1617)、信吉は高崎へ転封となり、
          西尾忠永が2万石で入封した。忠永の子の忠照の代に、本丸に東西2基の櫓が築か
          れた。忠照は慶安二年(1649)に駿河田中へ移封となり、朽木稙綱が3万石で土浦
          藩主となった。稙綱のとき、現在に残る太鼓門が建造された。
           稙綱の子稙昌は福知山へ転封となり、老中土屋数直が4万5千石で土浦に入った。
          数直の子政直の代の天和二年(1682)、大河内松平信興が2万2千石で土浦へ入り、
          土屋家は田中へ転封となった。しかし、5年後の貞享四年(1687)に信興は大坂城代
          へ転任し、政直が再び6万5千石で土浦藩主となった。政直は最終的に9万5千石まで
          加増され、以後明治維新まで土屋家が土浦藩主を務めた。
           明治維新後、本丸内の建物は役所として残されたが、明治十七年(1884)の火災で
          太鼓門と西櫓を残して焼失した。西櫓も、昭和二十四年(1949)のキティ台風で大きく
          損傷し、まもなく解体された。
           こうして、土浦城内の現存建造物は太鼓門のみとなったが、平成に入って東西の櫓
          が復元された。このうち、西櫓は解体時の建材を利用したものである。

       <手記>
           土浦城は、桜川と新川に挟まれた両川の霞ヶ浦への河口近くに位置しています。
          土浦は霞ヶ浦の西端に位置し、城と湖とで水戸街道を挟み込んでいます。現在は本丸
          と二の丸の一部が亀城公園となっています。亀城という雅称は、水害に見舞われ易い
          土地柄でありながら、城自体はいつも亀の甲羅のように水に浮かんで見えたことから
          つけられたものだそうです。
           本丸の2基の櫓および太鼓門は東日本大震災で大きな被害を受け、私が訪れた時は
          修復の最中でした。本丸では、東櫓の脇の霞門のみが無事だったようです。ちなみに、
          太鼓門は関東で現存する唯一の城郭楼門なのだそうです。できるだけ早い復旧を期待
          します。
           二の丸は、道路や博物館建設により一部改変されているようですが、土塁や堀などは
          おおむね良好に残されています。二の丸東端には、一度民間に払い下げられてものを
          戻した高麗門形式の前川門があります。
           当然ながら、今では縦横無尽に水濠が走っていたころの面影は見られません。ですが、
          周囲に満々と水を湛えた本丸の姿は、亀城の名に思いを馳せるには十分といえます。

           
 本丸太鼓門。
本丸西櫓。 
 本丸東櫓。
東櫓脇の霞門。 
 二の丸東側の前川門。
二の丸の土塁。 
 本丸の堀と土塁。


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