鬼ノ城(きのじょう) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 大和朝廷か | |
遺構 : 石塁、土塁、門跡、敷石、堤 | |
交通 : 岡山自動車道岡山総社ICから車で20分 | |
<沿革> 同時代の史料や史書には見られない古代山城である。いわゆる「温羅伝説」においては、 吉備地方を統治していた渡来系の温羅(うら)が拠っていたとされる。朝廷は吉備津彦命を 送り、鬼と恐れられた温羅を攻め滅ぼした。温羅討伐にまつわるさまざまな伝説が、桃太郎 の物語の原型ともいわれる。 鬼ノ城の遺構は1970年代から発掘が進み、考古学上は7世紀後半の築城と推定されて いる。663年には白村江の戦いで大和朝廷軍が惨敗し、その後に大野城や屋嶋城といった 古代山城が相次いで築造された。鬼ノ城も、鬼(き)は城の転訛であり、これらと同じく国内 防衛や地方慰撫のために築かれた朝鮮式山城の1つとする見方が有力だが、確証はない。 発掘された遺物からは、8世紀初頭まで使用されていたとみられている。 <手記> 鬼ノ城は、標高397mの鬼城山を中心とする山塊に城塁が巡る古代山城です。鬼城山と その北の峰を結ぶ稜線を西辺とし、東側へなだらかに下っていく地形となっています。西麓 にビジターセンターや広い駐車場があり、城内も推定復元された西門をはじめ、ぐるっと1周 できる散策路が整備されています。ビジターセンターへの道は南方の砂川公園から通じて おり、駐車場の立派さに比べてかなり細い山道なのですが、城跡巡りに慣れている人なら 難しくはないでしょう。 私が訪れたとき、門脇の版築土塁が修復工事中で、その工事の方々に呼び止められて しばし歓談しました。「工期が厳しくて大変なんだ。間に合わなかったときの言い訳を一緒に 考えてくれ」などと冗談をとばされつつ、なかにはちょっとここには書けないような裏話まで、 いろいろと教えてくださいました。 1周してまだ戻るのでどちらから回っても上り下りの労苦は変わりません。遺構の呼称から 東周りが順路のようですが、私は西から回りました。西辺は城門を除いて土塁となっている ので、石垣を先に堪能したいのなら、やはり東周りがよいでしょう。東辺に石垣が多いのは、 こちら側が人里に向いているのと、斜面の下側なので水門などの造作が必要だったためと 推測されます。また、郭内には礎石建物群がありますが、これを訪ねるには西辺から行った 方が、上り下りが楽です。 それにしても、私は古代山城は門外漢ですが、これだけの石垣をはじめとする巨大建築が 7世紀時点で各地に建造されていたとは、たとえ渡来人の技術とはいえ驚きです。一方で、 規模の大きな朝鮮式山城が日本に根付くことはなく、いったんミニマイズされた後、日本の 風土に合わせてカスタマイズされ、再び巨城化していったという流れは興味深く感じます。 |
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学習広場から西門を望む。 | |
復元西門を見上げる。 | |
角楼跡から西門および平野部を俯瞰。 | |
礎石建物群。 | |
北門跡を土塁上から見下ろす。 | |
北門跡。 | |
北門跡外側。石塁跡か。 | |
北端付近の門跡。 | |
北端付近の土塁。 | |
温羅舊跡石碑。 | |
北東端の第5石垣突出部。 | |
屏風折れの第5石垣。 | |
第5水門の土手遺構。 | |
谷川の堰き止め堤跡。 | |
第5水門跡。 | |
鍛冶工房跡。 | |
東門跡。 | |
第4石垣を望む。 | |
第4水門跡。 | |
第4石垣の突出部。 | |
第4石垣上から東門跡および 第5石垣を望む。 |
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郭内の列石。 | |
第3水門跡。 | |
通路の列石。 | |
南門跡。 | |
第2水門石垣。 | |
第1水門石垣。 | |
復元版築土塁と西門を望む。 | |
通路の敷石。 | |
復元版築土塁。 |