桐原城(きりはら) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 桐原真智 | |
遺構 : 石積み、曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR篠ノ井線、松本電鉄松本駅よりバス 「桐原」バス停下車徒歩20分 |
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<沿革> 『信府統記』によれば、寛正元年(1460)に桐原大内蔵真智によって築かれたとされる。 桐原氏の出自については定かでないが、院政時代に筑摩郡に桐原荘が置かれていた ことから、中央から派遣された荘園管理者が土着したものと推測されている。また、信濃 には後院領の桐原牧が存在しており、松本市教育委員会ではこれもこの地にあったもの としているが、現在の長野市桐原にあったとする説が有力である。真智を犬甘城主犬甘 大炊介政徳の弟とする伝承もあるようだが、真智が寛正元年に桐原城を築いたとすると、 明らかに年代が合わない。 桐原氏はその後、市正真実、蔵人真貞、織部真基と続いたとされる。天文十九年(15 50)、武田晴信が松本平へ侵攻すると、桐原城は林城など小笠原氏の他の諸城とともに 自落したと伝えられる。桐原城および桐原氏のその後については不明である。 <手記> 桐原城は、海岸寺沢と追倉沢に挟まれた峰の中途に築かれています。周辺には似た ような峰がいくつもあり、必ずしも目につく山容というわけではありませんが、ここが城に 取り立てられた背景には、薄川を挟んで向かいに聳える林城の後背を固めるという意図 があったのでしょう。また、文明十二年(1480)には、小笠原長朝が山家城を攻撃したと されることから、薄川上流方面からの攻撃に備える役割もあったものと推測されます。 追倉沢に沿ってひたすら道を上がると、城跡標柱と説明板があります。その奥の動物 除けのフェンスを越えて山に取りつくのですが、車も通れる立派なゲートではなく、脇の 小さな入口から入り、しばらく山腹をスライドするような踏み分け道を進みます。 海岸寺沢側の尾根まで横歩きしたところで、直登道になります。上の地図にも見える とおりのこの細長い尾根には、付け根側と先端側にそれぞれ二重堀切があり、その間 に階段状の削平地群があります。この削平地群の真ん中を登山道が直登していますが、 道の両側の削平地は同じ高さにあります。おそらく当時は左右の削平地はつながって いて、尾根の真ん中を貫く道は後世につくられたものと思われます。 山側の二重堀切を越えると、主城域まではっきりした削平は見られなくなる代わりに、 豪壮な竪堀が目につくようになります。なかには畝って半ば横堀状になっているものも あり、桐原城の最大のみどころのひとつとなっています。 主郭に近づいてくると、今度はそこかしこに石積みが見られるようになります。山家城 など近隣の城と同様、やや平たく割った石を平積みしたものですが、桐原城ではかなり 広範囲に亘って目にすることができます。ただ、私はこれらの石積みの大部分について かなり懐疑的です。主郭周囲の石積みが、明確に土塁の補強として用いられているの に対し、山腹のその他多くの石積みは土塁を形成しておらず、土止めの腰巻石積みに なっています。また、主郭以外の石積みの上は曲輪として形成されているように見えず、 仮に曲輪であったとしても、全体の縄張りとしてかなり不自然に感じられます。 総じて考えてみるに、主郭を囲む石積み以外のほとんどのものは、後世に畑地開発 した際に積まれたものと考えるべきではないかと思います。 主郭背後には空堀が1条あり、主郭の北辺下で2本に分岐してそれぞれ竪堀と横堀に なっています。この空堀は堀切というほど稜線を断絶してはおらず、かといってその先に 別個に堀切が設けられているようには見受けられません。背後の造作はややお粗末な ように感じられますが、おそらくこちら側からの攻撃は想定していなかったのでしょう。 |
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主郭のようす。 | |
主郭の石積み。 | |
同上。 | |
同上。主郭の虎口か。 | |
主郭背後の空堀。 | |
主郭背後の空堀から延びる竪堀と横堀。 画面中央右側で分岐しています。 |
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主郭下の石積み群。 このあたりは後世のものと思われます。 |
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竪堀。 | |
半ば横堀化している竪堀。 | |
尾根筋付け根側の二重堀切。 | |
尾根筋の削平地群の1つ。 | |
峰先側の二重堀切。 | |
同上。 | |
スライド山道途中の竪堀。 前出の大竪堀から続いています。 |