山家城(やんべ)
 別称  : 中入城
 分類  : 山城
 築城者: 山家為頼か
 遺構  : 石積み、曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : JR篠ノ井線、松本電鉄松本駅よりバス
       「徳運寺前」バス停下車徒歩20分


       <沿革>
           諏訪氏一族の山家氏によって築かれたとされる。山家氏は、諏訪(神)為頼にはじまる
          とされ、為頼は元弘元年(1331)に徳運寺を開山したと伝わる。ただし、諏訪氏系譜上に
          おける為頼の位置については不明である。
           『神長守矢満実書留』によれば、文明十二年(1480)に井川城主小笠原長朝が山家城
          を攻め、山家孫三郎が討ち死にしたとある。その後も山家氏は山家城にあって小笠原氏
          に抵抗していたようだが、永正二年(1505)に至って、小笠原家臣折野昌治が山家氏を
          継承した。このときまでに諏訪氏流山家氏は滅ぼされたものとみられるが、詳細は不明
          である。昌治は、阿波小笠原氏の庶流で播磨国から移ってきたとされるが、信州伊那の
          住人とする説もある。
           天文十九年(1550)、武田晴信が松本平に侵攻すると、林城主小笠原長時は城を捨て
          て落ち延びた。昌治はこのとき晴信に寝返ったとも、林城落城を受けて自落したともいわ
          れる。その後の山家城については定かでない。


       <手記>
           山家城は、薄川とその支脈である北沢、菖蒲沢に挟まれた細長い山稜上にあります。
          林城、林小城、桐原城、埴原城とともに「小笠原氏城跡」として一括して県史跡に指定さ
          れています。
           上の地図のとおり、城山の前後どちらからでも登ることができます。峰先側から登ると、
          尾根筋に取りつき、二重堀切を越えてまもなく主城域に入ります。主城域は、大きく上下
          2段とその他の曲輪から成っています。何といっても圧巻は、主郭の周囲に断続的に残る
          石積みです。平たく割った石を愚直に積み上げた石塁が、場所によっては結構な大きさ
          で視界を賑わせます。主郭の奥には櫓台ないし烽火台状の土塁があり、その下に小さな
          祠が祀られています。
           ここまでなら、小規模ながらシステマティックに整えられた城といった評価になるでしょう
          が、山家城はまだここで半分です。主郭の背後には巨大な二重堀切があり、その先にも
          総計5本の連続堀切が続き、詰曲輪に至ります。主郭背後の二重堀切は、間に仕切りの
          土塁がありますが、崩れた石材が見られるため、当時はこれも石塁で固められていたと
          推測されます。堀切も、すべて両脇に長く深い竪堀を備えています。
           詰曲輪には秋葉神社が鎮座しており、周囲は土塁や堀、腰曲輪で固められていますが、
          主郭のような石積みはみられません。上の地図で「中入城跡」とあるピークがこの詰曲輪
          になります。
           詰曲輪の背後には堀切があり、これで終わりかと思いきや、さらにもう1つ奥の小ピーク
          まで曲輪形成がなされています。この最奥の曲輪は、大きく3段ほどに削平されています
          が、土塁や堀などの造作は他の城域と比べて格段に弱いように見受けられます。ただ、
          この曲輪の背後に1本大きな堀切があり、ここでようやく城の最後尾となります。背後から
          の登城路は、この堀切からもう1つ小さなピークを越えたところの鞍部に出ます。ですので、
          一応背後から取りついた方が、見逃しなく確実に全城域を見て回ることができます。
           山家城は、薄川の上流と中流の中間あたりに位置し、周辺の谷戸は完全に渓流です。
          失礼ながら農地開発に適した土地にはどうしても見えません。麓の集落を囲う3本の川は
          どれも深く、山麓そのものが要害地形であるとみることもできます。さらに薄川を遡ると、
          三峰山両脇の峠を越えて和田や下諏訪とつながっています。諏訪氏族とされる山家氏は、
          あるいは諏訪盆地からこちらのルートで山家郷へ進出し、さらに松本平へ延びようとして
          小笠原氏と衝突したのではないかと推測されます。
           現地説明板にもある通り、山家城は秋葉神社の建つ詰曲輪周辺がもともとの主城域で、
          石積みの連なる主郭は後から増改築されたものと考えられます。では、増改築を行った
          のはいったい誰かというところが論点となろうかと思われます。市教委が設置した説明板
          には「戦国最末期の松本平の石垣技術の到達点」と表現されており、ここからは甲斐武田
          氏の手になるものではないというニュアンスが読み取れます。狭義に「松本平の支配者」と
          呼ぶべきものとなると、まず小笠原氏が思い浮かびます。とはいえ、この場合あてはまる
          のは、天正十年(1582)の天正壬午の乱に際して再興を果たした小笠原貞慶だろうと考え
          られます。本能寺の変後の空白状態にあって、平城の深志城(松本城)より山家城などの
          山城を恃んで大改修したとしても、不思議ではありません。あるいは、同十八年(1590)に
          松本に入封した石川数正の時代くらいまでは現役だったかもしれません。

           
 主郭のようす。
主郭の石積み。 
 同上。
主郭の虎口石積みか。 
 主郭下尾根筋の二重堀切。
主郭下の曲輪から主郭切岸を見上げる。 
 主郭背後の二重堀切。
二重堀切の主郭側堀底より。 
 堀切から続く竪堀。
主郭背後の5連堀切の3条目。 
 同4条目。
同5条目。 
 詰曲輪の秋葉神社。
竪堀(手前)を伴った腰曲輪。 
 詰曲輪背後の堀切。
最奥の曲輪のようす。 
 3段に削平された最奥の曲輪。
最奥の曲輪の削平地と土塁。 
 最後尾の堀切。


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