吉祥院城(きっしょういん)
 別称  : 西ノ庄城
 分類  : 平城
 築城者: 不明
 遺構  : なし
 交通  : JR東海道本線西大路駅徒歩10分


       <沿革>
           遺跡ウォーカーや『探訪ブックス 近畿の城』では「吉祥院城」、山本正男「京都市内および
          その近辺の中世城郭」(『京都大学人文科学研究所調査報告 第53号』)では「西ノ庄城」と
          呼称している。さらに山本氏は、政所城西ノ内城竹尻城をそれぞれ吉祥院城A・B・Cと
          している。
           山本「中世城郭」によれば、文禄年間(1592〜96)に小原氏および福地氏が居城していた
          とされる。城主の1人とみられる福地三河守は、豊臣秀長の家臣となって大和郡山城内
          屋敷を与えられた。
           また、明応年間(1492〜1501)の文書に、八条西庄住人として福地新左衛門光長の名が
          みられる。この時点で福地氏の居城として築かれていたものと考えられるが、確証はない。
           吉祥院城が史料に登場するのは天文四年(1535)のことで、『久保田文書』の細川晴国
          書状に、「吉祥院に於て入城の由神妙に候」とある。また『親俊日記』の天文八年(1539)
          七月二十一日の項には、「吉祥城敗北すと云々」とある。下って『言継卿記』の天文二十年
          (1551)二月十六日の項には、山科言継が「吉祥院三好の所」へ赴いたものの、三好長慶
          が留守であったため引き返したことが記されている。これらの吉祥院の城館ないし吉祥城
          が指すのが西ノ庄の城なのか、それとも山本氏の指摘する他の3つの城のどれかである
          のかは明らかでない。


       <手記>
           吉祥院城は八条通の南、佐井通の西にあったとされる方形の城館です。八条通が城内を
          通過していますが、かつては城を避けるように北側に折れ曲がっていたそうです。
           とくに遺構や案内等は見受けられません。

           


吉祥院城周辺現況(八条佐井交差点)。


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