小仙波堀の内(こせんば)
 別称  : 喜多院
 分類  : 平城
 築城者: 天海か
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : 西武新宿線本川越駅徒歩10分


       <沿革>
           現在の喜多院は、天長七年(830)に淳和天皇の命により建立された無量寿寺に
          はじまるとされる。
           慶長四年(1599)、徳川家康の腹心として活躍した南光坊天海が無量寿寺北院
          の住職となった。同十七年(1612)、天海は徳川家康および川越藩主酒井忠利の
          支援を受けて北院の再興に着手し、寺号を喜多院と改めた。
           無量寿寺には、もともと北院・中院・南院の3つがあったが、寛永十年(1633)に
          中院が南に遷され、その跡地に仙波東照宮が造営された。同十五年(1638)には
          大火によって建物のほとんどを焼失したが、翌年徳川家光の命によって、江戸城
          紅葉山御殿の一部などが移築・復興された。その後も、喜多院は徳川将軍家の
          篤い庇護を受け続けて今日に至っている。
           

       <手記>
           上述のとおり、寺院としての歴史以外のものは出てこないのですが、「堀の内」
          の地名と、明瞭に残る堀や土塁の遺構から、その構えは城館そのものであった
          と思われます。かつては今見られる堀の外側に総構え状の堀がもう1本あったと
          され、中小大名の居城クラスの規模を誇っていたようです。
           川越城から1つ谷を挟んだ南側の台地縁に位置し、もともとは出城としての役目
          もあったのではないかと推測されます。また、堀の内の地名から、後北条氏以前
          にも何らかの城館施設があったとも考えられますが、憶測の域を出ません。現在
          の遺構は必ずしも地形を意識して防備に取り入れているとはいえませんので、
          あったとしても扇谷上杉氏や後北条氏の重臣の屋敷が営まれていたという程度
          のものではないかと考えています。
           ちなみに、喜多院境内の慈眼堂および隣接する日枝神社の土塁は古墳を転用
          したものだそうです。

           
 喜多院。
喜多院南辺の土塁。 
 
 喜多院南辺の堀。
喜多院南辺の堀南西隅のようす。 
 喜多院と仙波東照宮の間の堀。
仙波東照宮西辺の堀。 
 日枝神社の土塁。


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