喜多見氏館(きたみし)
 別称  : 喜多見陣屋、喜多見屋敷
 分類  : 平城
 築城者: 喜多見氏
 遺構  : 土塁か
 交通  : 小田急線狛江駅よりバス
       喜多見中学校前バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           坂東八平氏の1つ秩父氏庶流江戸氏の一族、喜多見氏の居館とされる。源平合戦で
          活躍した江戸重長の次男武重が「木田見氏」を称していることから、このころには喜多見
          に館が築かれ、一族が領地経営を行っていたものと考えられる。
           江戸氏宗家は、応安元/正平二十三年(1368)の武蔵平一揆の乱に敗れて衰退し、
          やがて江戸城を捨てて喜多見へ移住した。江戸宗家のその後は不明だが、喜多見氏は
          世田谷城主吉良氏に仕えた。
           天正十八年(1590)に北条氏が滅び、徳川家康が関東に入国すると、喜多見勝忠は
          家康に従い、木田見村領500石を安堵された。江戸幕府が成立すると、勝忠は近江郡代
          や堺奉行を務め、2000石にまで加増された。
           勝忠の孫娘の子重政は、母方の祖父で勝忠の嫡男重恒の養子となり、喜多見氏を
          継いだ。重政は5代将軍徳川綱吉の寵愛を受け、貞享三年(1686)に1万石に加増されて
          大名に列した。喜多見氏の館は、ここに喜多見陣屋となった。その後さらに2万石に加増
          されるが、元禄二年(1689)に突如重政は改易され、桑名藩主松平定重預かりとなった。
          従兄弟の喜多見重治が起こした刃傷事件に連座したものともいわれるが、真の理由は
          不明である。藩政時代はわずか3年で幕を閉じ、喜多見陣屋も廃された。
           ちなみに、喜多見藩は東京都内地域に府庁が置かれた唯一の藩である。
          

       <手記>
           喜多見氏館は、慶元寺門前の「天神の森」付近にあったと推測されています。慶元寺
          の東に第六天塚古墳があり、その説明板によると、近くに第六天神社があったことから
          その名が付けられたとされています。天神の森というのも、この第六天神社周辺を指す
          ものと思われます。
           かつての多摩川は慶元寺のすぐ南を流れていたとされ、古墳のあるあたりは周辺の
          多摩川河岸のなかで最高所にあるように見えます。第六天塚古墳はすぐ北にある円墳
          の稲荷塚古墳と異なり、南北にやや細長い形状をしています。あるいは、館の土塁や
          櫓台に転用されていたとも考えられますが、確たることはいえません。
           現在、比定地周辺は住宅や畑地となっていて、このほかに城館跡を思わせるものは
          見当たりません。

           
 第六天塚古墳。
 館跡とされる天神の森はこの周辺にあったものと
 思われます。
喜多見氏の菩提寺、慶元寺。 
 おまけ:慶元寺参道脇の江戸重長像。


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