桑名城(くわな) | |
別称 : 扇城、旭城、東城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 伊藤武左衛門か | |
遺構 : 石垣、濠、櫓台 | |
交通 : JR関西本線・近鉄名古屋線ほか桑名駅 からバスに乗り、「田町」下車徒歩5分 |
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<沿革> 16世紀前半ごろ、桑名にはさまざまな土豪の城館が散在していたとされるが、そのうち 伊藤武左衛門実房の築いた東城が、今日の桑名城跡の位置にあたるとされる。伊藤氏 は織田信長が北伊勢を掌握した永禄十一年(1568)までに織田氏に服属したとみられる が、詳しい経緯は定かでない。 元亀元年(1570)に長島一向一揆が発生すると、桑名城の滝川一益が一揆勢に敗退 したとされる。この桑名城が東城を指すのか、また実房がこのときどうしていたのかなど 詳細は明らかでない。 天正十九年(1591)、豊臣秀次附の重臣として一柳可遊(右近直秀)が桑名の領主と なった。近世桑名城の基礎を築いたのはこの可遊とされ、文禄四年(1595)には神戸城 の天守を移築した。しかし、可遊は同年の秀次事件に連座して切腹となった。ちなみに、 南魚町の仏眼院にある墓碑によれば実房は天正十一年(1583)に没し、子の武左衛門 実倫は東城を出て地侍の筆頭として屋敷を構えたとされる。 可遊亡き後は氏家行広が桑名城主となった。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し て行広は中立を望んだものの、西軍の伊勢方面軍が迫ると従わざるを得なくなり、戦後 に改易された。 その後、一時的に徳川家臣松平家乗が桑名城に進駐し、翌慶長六年(1601)に本多 忠勝が大多喜城から10万石で入部して桑名藩を立藩した。徳川四天王の一角である 忠勝の起用は、大坂城の豊臣家に対する東海道の押さえとして、桑名が重要視された ことの証左といえる。忠勝の下で桑名城は大きく拡充され、新たに4層6階の天守も建造 された。 豊臣家滅亡後の元和三年(1617)、忠勝の嫡男忠政は姫路藩へ加増・転封となった。 代わって桑名藩に入ったのは、家康の異父弟にあたる久松松平定勝であった。松平家 の下でも拡張工事は続けられ、外郭が整備されたものの、元禄十四年(1701)には大火 で天守を焼失し、以後再建されることはなかった。 宝永七年(1710)、久松松平家は越後高田藩へ移封となり、代わって奥平松平忠雅が 備後福山藩から入封した。奥平松平家は7代続いたが、文政六年(1823)に久松松平家 の松平定永が白河藩から再び桑名藩に封じられた。定永は、寛政の改革で有名な老中 松平定信の嫡男である。 幕末の藩主定敬は高須藩からの養子で、実兄に尾張藩主徳川慶勝・一橋家当主徳川 茂栄・会津藩主松平容保をもつ「高須四兄弟」の末弟にあたる。そのためもあり、定敬は 戊辰戦争で兄容保のいる会津へ渡り、函館まで旧幕府軍に従軍したが、桑名城は藩主 不在のまま新政府軍に無血開城している。このとき、降伏の証として辰巳櫓が新政府軍 に焼き払われた。 <手記> 徳川四天王の1人・本多忠勝ゆかりの地、あるいは東海道七里の渡しの宿場町として 知られる桑名ですが、駅から城跡や宿場界隈まではやや離れていて、歩くと15分以上 かかります。駅前から長島温泉行きのバスに乗り、田町で降りると、残り5分ほどに短縮 できます。 城跡は九華公園として整備されていますが、石垣は明治政府によって四日市港建設 の石材に転用されたといわれ、ほとんど残っていません。七里の渡し場から南に伸びる 三之丸西辺と、二之丸南西に突き出た奥平屋敷の東辺に、一部の石垣が残存している のみだそうです。 そもそも、たいていの近世城郭跡では堀が埋められてしまうところ、桑名城では何故か 逆に二之丸や朝日丸の一部が削り落とされ、水濠が拡張されています。ぱっと見、幅広 の水濠に浮島のような曲輪が点在する構造のように見えますが、当時の縄張りと大きく 異なっている点には注意が必要です。 また、もう1つの見どころとして、七里の渡しの東向かいの蟠龍櫓が挙げられます。これ は平成十五年(2003)に国交省の水門統合管理所として外観復元されたもので、内部も 無料で見学できます。2階建ての小ぢんまりとした櫓なのですが、上階に案内係の方が いたのにはちょっと驚いてしまいました。窓からは、櫓名の由来であり、渡し船から目に つくように破風に載せられた龍の装飾が見られます。 |
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天守台跡。 | |
神戸櫓跡。 神戸城天守を移築したものと伝わります。 |
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辰巳櫓跡。 | |
本丸の水濠。 | |
二之丸の水濠。 | |
奥平屋敷跡の石垣。 | |
三之丸の本多忠勝像。 | |
蟠龍櫓。 | |
同上。 | |
三之丸西辺の石垣。 | |
同上。 |