春日山城(かすがやま)
 別称  : 鉢ヶ峰城
 分類  : 山城
 築城者: 上杉氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口、井戸
 交通  : えちごトキめき鉄道春日山駅徒歩40分


       <沿革>
           正確な築城年代は定かでないが、南北朝時代に越後守護となった上杉氏によって、守護館の
          詰城として築かれたとされる。永正四年(1507)に守護代長尾為景が守護上杉房能を急襲して
          自害に追い込むと、春日山城は長尾氏の居城として大きく改修されたとみられている。
           永正六年(1509)、房能の実兄である関東管領上杉顕定が為景を攻撃すると、為景は越中へ
          逃亡した。翌七年(1510)には、越後周辺諸国からの援軍を集めて反撃に転じ、六月に府中を
          奪い返すと、長森原の戦いで顕定を討ち取った。
           永正十年(1513)、琵琶島城主宇佐美房忠や上条城主上条定憲らが小野城に籠って為景と
          と対立すると、為景がこれを攻めている隙を突いて、傀儡の守護であった上杉定実が春日山城
          を占拠した。まもなく反乱は鎮圧されて定実は幽閉されたが、このとき春日山城を奪還するのに
          準備で6日、攻撃に3日を要したともいわれる。
           為景の跡を継いだ嫡男晴景は、柔和な性格で自立性の強い越後の国人たちを統制するには
          実力が不足していた。天文十四年(1545)、黒滝城主黒田秀忠が反旗を翻すと、春日山城まで
          攻め入って晴景の弟の景康と景房を殺害したとされる。このとき、末弟の景虎(後の上杉謙信)
          は床下に隠れて難を逃れ、傅役の金津新兵衛に救出されたと伝わる。ただし、当時の景虎は
          栃尾城主であり、前年に周辺豪族から攻められる(栃尾城の戦い)など現地で対応に当たって
          いた。また、黒滝城から直線で約80km離れた春日山城まで難なく攻め入ることができたのか、
          景康・景房は実在したのかなど、疑問点も多い。
           秀忠は黒滝城に立て籠って抵抗するも、同年中に景虎に攻囲されて降伏した。翌天文十五年
          (1546)にも再び蜂起したが、やはり景虎に攻められ自刃した。これらの過程で、果断な景虎の
          家督継承を望む声が越後国内で高まり、同十七年(1548)に晴景は定実の仲介で隠居を余儀
          なくされた。
           以降、景虎(謙信)が関東管領上杉氏を継承し戦国大名として発展していくなかで、春日山城
          は絶えず改修・拡張されていった。謙信が在城した30年の間、城の普請を命じる書状がいくつも
          残されている。
           天正六年(1578)三月十三日に謙信が急死すると、養子の景勝と景虎の間で家督争いが勃発
          した(御館の乱)。いち早く春日山城の本丸や金蔵などを占拠した景虎は、三の丸の景虎を攻撃
          した。しかし、ただちに前面衝突とはならず、当初は越後国内の景勝派と景虎派が形成されて、
          各地の国人間での争いが発生していく形で乱の規模が拡大したといわれる。五月に入り、景虎
          は春日山城を退去し、御館を拠点として景勝との対決姿勢を鮮明にした。同月十七日と二十二日
          に数千の兵で春日山を攻撃したが、景勝に撃退された。
           初めは周辺諸大名の支持を受けた景虎方が優位であったが、同年六月に春日山城の資金と
          領土割譲を条件に武田勝頼が景勝と和睦すると、形勢が逆転した。春日山城と御館の間では
          睨み合いが続いたが、この間に越後国内では景虎派の戦死や落城、離反が相次いだ。景勝は
          翌七年(1579)三月に御館を総攻撃し、景虎は鮫ヶ尾城へ敗れて逃れたものの、城主堀江宗親
          に背かれて自害した。
           春日山城は引き続き景勝の居城となったが、豊臣秀吉に臣従した上杉家が慶長三年(1598)
          に会津へ転封となると、堀秀治が30万石で春日山城主となった。秀治の治世下でも春日山城は
          改修を受けたとされ、監物堀は堀家家老・堀監物直政に由来するといわれる。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い前後に、秀治は直江津に新城の築城を計画した。同十二年
          (1607)に福島城が完成すると、秀治の子忠俊は春日山城を廃して居を移した。


       <手記>
           上杉謙信の居城にして巨城として一般的にも知名度の高い春日山城は、城跡好きだけでなく
          観光客やハイカーも多く集まる一大スポットとなっています。他方で公共交通機関でのアクセス
          が不便だったり、駐車場が十分とはいえなかったりと、人気に比べて整備が追い付いていない
          面も見受けられます。建物の木造復元という構想も盛り上がっているようですが、その前にやる
          べきことが多々あるように見えるのが実感です。
           城内は春日山神社下の駐車場を起点に、千貫門跡を経由する尾根筋ルートと、三の丸跡など
          を経て正面から上がるルートの大きく2つがあります。それに加えて柿崎屋敷や南三の丸などの
          南尾根の遺構を見学すると、どうしても一筆書きでは回れません。規模の大きさはあにいわんや
          で、じっくり見るにはそれなりの時間を見込んでおいた方がよいでしょう。
           城内の主要部分は、史跡公園化されているか雑草畑となっていますが、南三の丸については
          畑地が残るなど未整備のままのようです。雑木林となっている曲輪の中心部まで上がろうとした
          ところ、なんとイノシシの成獣に遭遇して威嚇されてしまい、一目散に撤退しました。すぐ近くでは
          家族連れやご老人方がハイキングを楽しんでいると思うと、いっそう面食らった感じです。
           他方で南三の丸の脇には亀割清水という湧水があり、今も絶えず水が湧き出ています。訪城
          の際には大きめの容器を用意するとよいでしょう。

           
 春日山城跡遠景。
謙信公像(右)と本丸(左手奥)。 
 本丸〜三の丸の曲輪群を望む。
但馬谷の曲輪群。 
 老母屋敷跡に鎮座する春日山神社。
御屋敷跡。 
 御屋敷下の黒金門跡。
右近畑と呼ばれる曲輪跡。 
 千貫門跡。
千貫門奥の二重堀切。 
 二重堀切の前方側。
同じく後方側。 
 帯曲輪跡。
東尾根の曲輪群。 
 直江屋敷跡。
御花畑跡。 
 不識庵跡に建つ毘沙門堂。
護摩堂跡。 
 毘沙門堂跡。
護摩堂跡付近から本丸を見上げる。 
 本丸と天守台の間の堀切。
本丸の城址碑。 
 本丸からの眺望。
同上。眼下は二の丸。 
 本丸から天守台を望む。
大井戸跡。写真では伝わりにくい 
ですが、洞窟のような大きさです。 
 本丸背後の油流。油を流したように
 登りにくい土手という意味だそうです。
二の丸跡。 
 米蔵および三の丸跡を俯瞰。
三の丸に隣接する景虎屋敷跡。 
 三の丸下の甘粕屋敷跡。
堀切越しに鐘楼跡を望む。 
 鐘楼跡。
景勝屋敷の堀切。 
 景勝屋敷跡。
堀切越しに柿崎屋敷跡を俯瞰。 
 柿崎屋敷の虎口跡。
柿崎屋敷跡から宇佐美屋敷跡を見上げる。 
 柿崎屋敷跡下の堀切。
南三の丸へ続く旧大手道。 
 南三の丸の屋敷跡。
南三の丸の土塁と門跡。 
 南三の丸の曲輪群。
同上。この先でイノシシに遭遇しました。 
 亀割清水。
春日山城の搦手門と伝わる林泉寺山門(奥)。 


BACK