名島城(なじま)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 立花鑑載
 遺構  : 石垣、門
 交通  : 西鉄貝塚線名島駅徒歩10分


       <沿革>
           立花山城主立花鑑載によって、天文年間(1532〜55)に支城として築かれたのがはじまりと
          される。鑑載が立花山城主となったのは同二十年(1551)以降と考えられるため(立花山城の
          項を参照)、名島築城もこれ以降と推測される。
           天正十五年(1587)、豊臣秀吉の九州平定により、小早川隆景が筑前など37万石余を与え
          られた。水軍を得意とする隆景は、山上の立花山城を廃し、海沿いの名島城を新たな居城と
          定めて改修を加えた。文禄元年(1592)の文禄の役に際しては、名護屋城へ向かう秀吉一行
          が名島城に宿泊している。
           慶長三年(1598)、隆景の跡を継いでいた養子の秀秋は、義叔父の秀吉から北ノ庄15万石
          への減封転封命令を下された。当時は朝鮮出兵のさなかであったが、減転封の理由について
          は定かでない。筑前の小早川領は太閤蔵入地となったが、名島城を誰が管理していたのかに
          ついても詳らかでない。同年中に秀吉が死去し、翌四年(1599)には五大老の連署により秀秋
          が旧領に復帰した。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの論功により、秀秋は岡山へ加増転封となった。代わって
          黒田長政・孝高父子が、筑前52万石に入封した。黒田父子は、名島城を手狭で発展性が望め
          ないとして、翌年より新規に福岡城の築城を開始した。普請には名島城の石材や建材が転用
          された。同十二年(1607)に福岡城が完成すると、名島城は廃城となった。

          
       <手記>
           名島城は、多々良川河口に突き出た岬状の丘に位置しています。古地図を見ると、当時は
          三方を海に囲まれた細長い半島だったようで、水軍の運用に優れた城であったことが分かり
          ます。
           現在、本丸周辺が城址公園として整備されています。たが、その一画に立つ立派な城址碑
          とは裏腹に、遺構はほとんど残っていません。建築材料が運び去られたとはいえ、今日では
          曲輪の境目すら見分けがつかなくなっているのは残念です。近年の発掘調査によって、本丸
          隅櫓の根石や本丸虎口の石垣が発掘され、一部(?)が露出したまま保存されています。この
          ほか天守台の石垣跡も検出されたそうです。建物遺構としては、福岡城に名島門として城門
          が、県庁向かいの崇福寺には唐門が移築現存しています。
           名島城に関しては、絵図が数点残っており、大まかな全体像は現地の地形と照らし合わせ
          て推察することができます。これにしたがえば、主城域は今の名島3丁目交差点付近までで、
          住宅地となっている二の丸と、本丸跡の城址公園の間が鞍部状になっているのは、かつての
          堀跡であると思われます。
           さて、小早川家2代の居城であった名島城は、黒田父子が入ると早々に廃されることになり
          ました。移転理由について一般にいわれているのは、名島城では城下の発展が見込めない
          からというものです。そのようなところに、政治力に優れた小早川隆景が選地するというのは
          不自然といえますが、中井均氏などは、背景に朝鮮出兵を見据えた秀吉の意向があったの
          ではないかと考えているようです。中井氏によれば、朝鮮出兵とその先の唐入りのためには
          水軍の整備が不可欠であり、名島城や小西氏の肥後麦島城、長宗我部氏の浦戸城などが、
          秀吉の命により築かれたものとみられています。
           この説は説得力があり慧眼だと思うのですが、ひとつ、名島城が築かれたのは朝鮮出兵の
          かなり前であるという問題があります。この説については、改めて論じることができれば思うの
          ですが、結論からいうと、秀吉は第一に情勢の定まらぬ九州の押さえとして小早川水軍を用い
          ようと考え、第二に小早川氏を強くさせ過ぎないように、あえて名島を指定したのではないかと
          個人的には推測しています。
           私個人の印象としては、名島は博多から決して遠すぎるわけではなく、眼前にメインロードの
          唐津街道が走り、少し歩けば平地もそれなりにあるので、城下の発展がまったく見込めないと
          いうほどではないように思います(もちろん、福岡には遠く及びませんが)。むしろ気になるのは
          城地そのものの方で、50万石はおろか30万石の居城としても、名島城は手狭に過ぎるように
          感じました。このような、石高に比べて手狭な城を秀吉が上から指定するという手法は、先の
          浦戸城や伊達政宗の岩出山城、徳川家康の江戸城(江戸については、その後の大規模造成
          によって土地が捻り出されていくことになりますが)など、しばしば用いられているように見受け
          られます。
           余談ですが、秀吉の九州平定から遡ること18年、永禄十二年(1569)に隆景が父毛利元就
          の命によって筑前に侵攻した際、隆景らは立花山城下の多々良浜で大友軍と対峙しました。
          正確な両軍の布陣は不明ですが、このときに隆景が一度名島城を経験済みだった可能性は
          高いと思われます。

           
 本丸跡の名島城址碑。
本丸虎口跡。左手が本丸、右手が二の丸。 
 虎口跡石垣。
同上。 
 本丸のようす。
本丸隅櫓跡石列。 
 名島城址から立花山を望む。
福岡市内崇福寺に移築された名島城唐門。 


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