高力城(こうりき) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 高力氏 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR東海道本線相見駅徒歩15分 | |
<沿革> 国人高力氏の居城とされる。高力氏は『平家物語』で有名な熊谷直実の後裔で、三河国 八名郡の地頭職を務めた三河熊谷氏の一族とされる。一般には、享禄二年(1529)にその 居城宇利城が松平清康に攻め落とされた後、城主熊谷実長の子正直またはその子重長 が高力郷に移り住み、姓を改めたとされる。 他方で、これに先立つ寛正六年(1465)の額田郡一揆の構成員に、高力氏および同族と される梁田氏の名がみられる。すなわち、高力氏の成立時期や経緯については不明な点 もあるが、高力城の築城者が高力氏であり、同氏が熊谷氏の後裔であることでは一致して いる。 重長は清康に仕え、子の安長とともに織田信秀と戦って討ち死にしたとされる。安長の子 清長は、清康の孫の徳川家康に仕え、本多重次(作左衛門)・天野康景(三郎兵衛)ととも に三河三奉行の1人となった。清長は温厚で慈悲深かったことから、「仏高力 鬼作左 どち へんなきは天野三郎兵衛」と評された。 天正八年(1580)、清長は遠江国馬伏塚城と鎌田郷を与えられた。同十八年(1590)に 家康が関東へ移封となると、清長もこれに従い武州岩槻城2万石へ転じた。高力城は早け れば馬伏塚城主となった際に、遅くとも関東入国までに廃されたものと推測される。 <手記> 高力郷は北西に向かって細く緩やかに伸びる台地上の集落で、上の地図に示した相見 川沿いに城址碑があります。ただ、現在の相見川は明らかに人工的に開削された用水川 で、おそらくかつては長嶺から坂崎の北側を回り、柳川に合流していたものと思われます。 したがって、当時の高力は大草方面と地続きだったとみられ、城址碑の立つ場所は台地の 頸部に当たり、あまり築城に向いているようには見えません。 個人的には、少し峰先側に行った山泉寺付近の方が、崖端の城館を築くのに適している ように感じます。その場合、山泉寺の斜面は切岸の名残と見ることもできるかもしれません。 また、石碑付近は道が狭いのですが、山泉寺の麓の公園にはちょうどよい駐車スペースが あるので、車の方はこちらを利用するとよいでしょう。 さて、高力氏についてはその成立時期が1つの論題となっています。個人的には、従来の 重長初代説はやはり問題があると考えます。というのも、高力郷は前述の通り大草に隣接 していますが、大草城には清康に屈服した大草松平家がありました。つまり、高力は清康 の勢力圏なので、清康と敵対して宇利城を失った熊谷氏が無条件で移り住める土地では ないはずなのです。 とすると、やはり高力氏が宇利熊谷氏から分かれたのは、額田郡一揆以前の時期だった とみるべきでしょう。同一揆の鎮圧で勢力を拡大した松平信光は、岡崎城主の西郷頼嗣を を攻め降し、大草城へ退かせます。信光は、さらに五男光重を頼嗣の婿養子に送り込んで 分家させました。この時点で、大草と岡崎の間にある高力氏は大草松平家を通じて松平氏 に服属することになったのではないでしょうか。すなわち、清康以前から松平家臣であった とするほうが、宇利城攻めの直後に転身したとするより自然と思われます。 |
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高力城址碑。 | |
城址碑脇の小祠と常夜灯。 | |
山泉寺を見上げる。 実際の高力城址はこちらではなかろうかと。 |