小磯城(こいそ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 越後五郎四郎か
 遺構  : 堀跡か
 交通  : JR東海道本線大磯駅からバスに乗り、
      「城山公園前」下車徒歩3分。


       <沿革>
           『鎌倉大草紙』によれば、文明九年(1477)一月に長尾景春が五十子陣を襲って主君
          である関東管領山内上杉顕定に反旗を翻すと(長尾景春の乱)、これに呼応して景春の
          被官越後五郎四郎が小磯城に立て籠もったとされる。このとき、相模国内ではほかにも
          小沢城の金子掃部助や溝呂木城の溝呂木正重、小机城の矢野兵庫助らも蜂起した。
           しかし、同年三月には扇谷上杉家家宰太田道灌が鎮定の軍を興し、溝呂木城および
          小磯城を相次いで攻略した。その後の小磯城については定かでない。


       <手記>
           不動川の河口東岸に旧吉田茂邸や旧三井別邸を整備した県立大磯城山公園があり、
          小磯城はこの周辺のいずれかのピークにあったものと推測されています。狭義の城山
          は公園と東海道本線を挟んだもう1つ北側の峰ということで、こちらを小磯城跡とする説
          もあるそうですが、明確な遺構は見られず有力とはいえないようです。
           『日本城郭大系』では、国道1号線を挟んだ南北の小丘を本命と睨んでいます。南側の
          丘は旧吉田茂邸の裏山で、ガサガサ勝手に入るわけにはいかなさそうです。北側の丘
          は旧三井別邸エリアの敷地内で、遊歩道も整備されています。入口を抜けて階段を登る
          と、『大系』で「掘り切った形跡」としている鞍部に行き着きます。ここには三井別邸時代
          に橋がかけられていたということで、堀切の雰囲気はあります。ただ、園内全体にいえる
          ことですが、どこまでが別邸建設前の地形であるかはほとんどわかりません。少しでも
          平らなところがあると削平地に見えてしまいますが、「なんでも遺構病」に陥らないよう
          気を張って巡る必要があります笑。
           北側の丘の頂部付近はあまり広くなく、ここが城跡としても大した人数は収容できない
          と思われます。ただ、東側中腹には横穴墓群があり、もともと人の手が入っていて転用
          しやすかったというのはあるかもしれません。
           いずれにしても、公園がきれいに整えられているのとは裏腹に、城跡を訪れたという
          感慨には浸りにくいでしょう。

           
 『大系』が指摘する南北2つの丘を望む。
堀切跡の可能性が指摘される鞍部。 
 同鞍部にかつてかかっていた橋の古写真。
北側の小丘頂部付近のようす。 
 北側の小丘東脇の横穴墓。

 
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