子王山城(こおうやま) | |
別称 : 皇鳳山城、喜平次の城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 多胡政兼ないし柴橋景家か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀跡 | |
交通 : JR八高線群馬藤岡駅よりバス 「二千階段入口」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 現地説明板によれば、平将門の家臣柴橋兵部景家によって築かれたとある。他方で 『日本城郭大系』には、10世紀の天慶の乱の際、多胡政兼が築いたとある。天慶の乱 は将門が起こしたものであるが、政兼が将門方・朝廷方のいずれであったのかは不明 である。そもそも、政兼や景家といった人物が実在したかも定かでなく、将門の時代に 築かれたとするのは伝承に過ぎない。 現地説明板によれば、天文二十一年(1552)に長尾景虎(後の上杉謙信)が平井城 を奪回した際に、景虎の甥の長尾喜平次顕景(後の上杉景勝)がこの城に入ったため、 「喜平次の城」と呼ばれるようになったとある。しかし、顕景は弘治元年(1555)生まれ であるため、天文二十一年には城に入り得ない。また、天文二十一年は上杉憲政が 北条氏によって平井城を逐われた年であり、景虎が関東へ進出するのは、永禄三年 (1560)以降のことである。 このほかに、子王山城について伝承などはみられず、廃城時期等は不明である。 <手記> 子王山は、鮎川に臨む標高550mの半独立峰で、皇鳳山とも書きます(読みは同じ)。 周辺の山々のなかでも屈指の標高をもち、山上からは遠く筑波山と思しき山まで望む ことができました。 子王山へは、西麓から「二千階段」と呼ばれる聞くだけで疲れてしまいそうな登山路 がありますが、南東の椚山集落からなら比高差100mほどですむ道があるので、こちら を推奨します。ただ、私が訪れた時には、西麓の鮎川方面から椚山へ登る道が工事中 で通行不可だったため、東の三名川沿いの道から登らなければなりません。 子王山城は、山頂の主郭を中心に、2〜3段の帯曲輪を巡らした縄張りをもっています。 帯曲輪の一画に、朱塗りの小さな神社があります。主郭の西には、堀切を挟んでやや 広い出丸があります。現地説明板ではこれを二の丸としています(説明板もここに設置 されています)。この曲輪は現在展望台となっていて、平井金山城や山名城など、周辺 を代表する山城をすら眼下に一望のもとに収めることができます。 椚山方面から登る遊歩道は、主郭に向けてほぼ一直線に伸びているのですが、残念 なことに途中の帯曲輪を分断してしまっているようです。帯曲輪に至る手前で、注意深く 覗くと藪の中を西手に進む旧道があり、先の神社の下を通って二の丸の堀切下に到達 します。おそらく、こちらが当時の登城路であったものと思われます。 現地説明板にある、天文二十一年に上杉景勝が入城したという伝承は、先述の通り そもそもあり得ないことですが、「喜平次の城」という別称が伝わっているのであれば、 その由来についてはいくつか仮説が立てられるかとおもいます。まず、喜平次が景勝を 指すのであれば、景勝の初陣とされる永禄九年(1566)から謙信が死去し御館の乱が 勃発した天正六年(1578)の間のことと考えられます。子王山城の役目は一にも二にも 物見だったでしょうから、景勝がこの城に長居するようなことはまず考えられませんが、 何らかの理由でちょっと立ち寄るくらいのことはあったかもしれません。 もう1つは、「天文二十一年」にこの城で何かがあったという点が正しいとして、景勝と 別の「喜平次」という名の城主が存在したと考えることもできるかと思います。この場合、 「喜平次」は上杉憲政か北条氏康の家臣で、北条氏が平井城を奪取した際に子王山城 も攻め落としたと解釈することができるものと考えられます。 いずれにせよ、今に残る遺構からは、平将門云々はともかく戦国時代までは使用され ていたことは、明らかであるといえます。 |
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百間築地付近から子王山を望む。 | |
椚山方面の登山口から子王山を見上げる。 | |
主郭のようす。 | |
帯曲輪に鎮座する神社。 | |
神社のある帯曲輪からの続き。 現在は登山路によって分断されています。 |
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旧登城路と思われる旧道。 | |
二の丸の堀切。 | |
二の丸に立つ説明板。 | |
二の丸からの眺望。 | |
南東方面の眺望。 中央奥にみえる山は筑波山か。 |