興隆寺城(こうりゅうじ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 興隆寺氏
 遺構  : 曲輪、切岸、堀
 交通  : JR桜井線/近鉄天理線天理駅からバスに
      乗り、「国道五ヶ谷」下車徒歩25分


       <沿革>
           筒井氏配下の国民・興隆寺氏の居城とされるが、詳細は不明である。


       <手記>
           興隆寺町背後の山が興隆寺城跡です。町とはいっても山肌に張り付くように家々が並んで
          いて、まるで四国の祖谷に来たかのような雰囲気さえ感じられます。上の地図には西側中腹
          に寺院があるように描かれていますが、廃寺となったようで立派な石垣と梅林を残すのみと
          なっていました。この寺院跡の北東隅から分け入って、山腹を北から東側へと回り込むように
          スライドしながら上がっていくと、城域背後の鞍部に至ります。途中、カーブした浅い堀底道が
          ありますが、遺構なのかただの旧道なのかは分かりません。
           山頂には切岸が見られ、シカのお出迎えをいただいたものの、郭内はド藪でとても入れそう
          にありませんでした。一方、背後鞍部には綺麗な堀切が穿たれているので、これを目にする
          だけでも登った甲斐があるといえるでしょう。
           『日本城郭大系』では、興隆寺城に椿尾上城椿尾下城、さらに高樋城や米谷城を加えた
          「五ヶ谷城塞群」なるものを提唱しています。椿尾上城は、永禄十一年(1568)に筒井順慶が
          福住の叔父・福住順弘を頼った後に築いたもので、城塞群が存在したとすれば、対松永久秀
          の拠点として構築したことになります。
           ただ、椿尾の両城は筒井氏の改修を受けているとみられるものの、興隆寺城は在地領主の
          詰城程度の規模で、高樋城に至っては曲輪形成がはっきりしません。福住に雌伏する順慶に
          とって五ヶ谷が防衛の要であることは論を待ちませんが、かといって城塞群というほどの大層
          なネットワークが築かれていたかというと、留保が必要なように感じます。


 八坂神社から興隆寺城跡を望む。
 車もここに停められます。
東側中腹の寺院跡石垣。 
城主居館跡か。 
 北側中腹から山頂を見上げる。
北側中腹から東側鞍部にかけて延びる堀底道。 
遺構かただの旧道かは不明です。 
 山頂付近のようす。
山頂付近の切岸。 
 東側背後鞍部の堀切。


BACK