椿尾上城(つばおかみ)
 別称  : 椶櫚城、椿尾城
 分類  : 山城
 築城者: 筒井順慶
 遺構  : 曲輪、石塁、土塁、堀、虎口、土橋
 交通  : JR桜井線/近鉄天理線天理駅からバスに
      乗り、「国道五ヶ谷」下車徒歩60分


       <沿革>
           永禄十一年(1568)、松永久秀に筒井城を攻め落とされた筒井順慶は、叔父の福住(福須美)
          順弘を頼って雌伏した。『筒井諸記』によれば元亀元年(1570)に、反撃の機を窺う順慶によって
          椶櫚山と呼ばれていた現在の城山に城が築かれた。
           同年中に窪之庄城を奪還した順慶は翌元亀二年(1571)に辰市城を築いて久秀を誘い、同年
          八月四日の辰市城の戦いで松永軍を撃破した。この戦いにより筒井氏が筒井城を回復すると、
          椿尾上城は役目を終えて意義を失ったものと考えられるが、その後の扱いは不明である。


       <手記>
           椿尾上城は、国人・椿尾氏の旧居城とされる椿尾下城から距離にして1.5km、比高150mほど
          さらに上がった標高528mの城山にあります。かなり山深い場所にあり、現状で周囲1kmほどの
          範囲に人家は見当たりません。ただし、山全体が植樹林となっていて城内まで作業道が付いて
          いるため、その奥深さに比して訪城は容易です。南東の道路脇に登城口の案内標識も建てられ
          ており、道路もそこまでなので駐車もできます。
           規模の大きな城で、曲輪の序列分けがやや難しいのですが、最奥の主郭と堀切を挟んでほぼ
          同じ高さの二の郭、その先の土塁や石塁で囲まれた三の郭が中心的な区画(各曲輪名は私が
          便宜上付けたもの)です。とくに三の郭の石塁は印象的で、土塁も直線と折れを基調とするなど
          だいぶ作り込まれています。主郭切岸にも石塁が見られますが、実戦上というより示威的な意味
          合いが強かったことは容易に推測できます。
           このほかには敵の推定侵攻ルートである南西斜面に畝状竪堀群が設けられ、また尾根先には
          少し離れて小ピークの出丸が認められます。
           当時はおそらく奈良盆地から広く望むことができ、筒井氏が大和における影響力を喪失しては
          いないことをデモンストレーションするという点で重要であったものと推察されます。逆に、順慶が
          筒井城を回復すれば不要となったはずで、短期限定的な目的で築かれた、筒井氏の築城術が
          詰まっているであろう貴重な城跡であるといえます。


 登城口と標識。
腰曲輪群を上から。 
 二の郭前の堀切。
腰曲輪の1つ。 
 虎口状地形。
二の郭の切岸。 
 二の郭のようす。
二の郭脇の帯曲輪。 
 同上。
主郭の堀切と土橋。 
 主郭切岸の石塁。
主郭奥の櫓台状土塁。 
 三の郭と土塁を俯瞰。
三の郭の櫓台状態土塁。 
 同上。
三の郭の石塁と横堀。 
 同上。
三の郭の石塁。 
 同上。
三の郭の横矢折れ。 
 三の郭下の腰曲輪。
腰曲輪群から三の郭方面を望む。 
 腰曲輪群前方の虎口状地形。
三の郭南西斜面の畝状竪堀群。 
 峰先側の小ピークの出丸跡。
出丸跡に伴う堀切状地形。 


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