椿尾下城(つばおしも)
 別称  : 椿尾城
 分類  : 山城
 築城者: 椿尾氏
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR桜井線/近鉄天理線天理駅からバスに
      乗り、「国道五ヶ谷」下車徒歩60分


       <沿革>
           興福寺門跡大乗院の衆徒・椿尾氏の居城として築かれたとみられている。椿尾氏は奈良盆地
          北部の波多荘や高田荘の下司職を与えられ、応仁の乱から16世紀初頭にかけては古市氏に
          従っていた。永正五年(1508)に古市澄胤が自害すると筒井氏に接近し、享禄二年(1529)には
          古市氏を支援する細川晴元家臣・柳本賢治が椿尾城を攻撃したとされる。
           『筒井諸記』には、天正十四年(1586)の段階で椿尾氏を筒井一族として扱っており、筒井氏に
          よる一門化が緩やかに行われたものと推測される。永禄十一年(1568)に松永久秀が筒井城
          攻め落とすと、筒井順慶は椿尾南東の福住を本拠とする叔父の福住順弘を頼った。
           順慶は雌伏しつつも反撃の機を窺って力を蓄え、元亀元年(1570)には新たに椿尾上城を築城
          した。翌二年(1571)には辰市城の戦いで久秀軍に大勝し、筒井城を回復したが、その後の椿尾
          下城および椿尾氏については詳らかでない。


       <手記>
           椿尾下城は、南椿尾・北椿尾両町の背後にせり出した山上に築かれています。椿尾上城とは
          距離にして1.5km、比高150mほど離れていますが、稜線は繋がっており、町内からは今でも奈良
          盆地を睥睨することができます。
           明確な登城路はありませんが、東側の道路から谷筋に登れる箇所があり、最後尾の堀切へと
          到達します。城内は植樹林で見通しは悪くないものの、手入れはなされていません。とくに主郭が
          藪に埋もれてしまっており、残念な感じです。
           主郭部の前後に1条ずつ堀切があり、さらに西尾根の先端部にも3条の堀切が穿たれています。
          また、3条堀切のうち最も上手のものは、西の丸と接する土塁が竪土塁となって延びているのも
          大きな特徴です。
           椿尾上城が築かれたのと前後して、椿尾下城も筒井氏によって改修されたとみるのは、おそらく
          衆論の一致するところでしょう。ただ、曲輪配置や防備に技巧性は上城ほど高くないため、基本的
          な縄張りなどは椿尾氏の詰城のままであると推察されます。
           『日本城郭大系』では、周辺の興隆寺城や高樋城も含めて「五ヶ谷城塞群」なるネットワークを
          提起していますが、これら2城については上下椿尾城と比べてかなり見劣りのする城砦といわざる
          を得ません。もし存在したとしても、それが必要だったのは筒井城を奪還するまでの3年間のみで
          あったことから、未完ないり臨時的なものであったでしょう。ちなみに、単に椿尾城というと現在は
          上城を指すようですが、下城のみが存在していた期間が圧倒的に長いため、当時はおそらく椿尾
          といえば下城を指していたのではないかと思われます。


 東側道路沿いからの取り付き口。
最後尾の堀切。 
 主郭の切岸。
主郭部前方の堀切。 
 西の丸付近の土壇。
帯曲輪。 
 横堀。
西の丸の切れ込み地形。 
 西の丸のようす。
西の丸前方の土塁。 
 そこから続く竪土塁。
竪土塁に伴う空堀。 
 その先の堀切。
椿尾町内から奈良盆地を見渡す。 


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