小沢古城(こさわこ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 小沢氏
 遺構  : 土塁
 交通  : JR相模線上溝駅よりバス
       「小沢」バス停下車徒歩3分


       <沿革>
           武蔵七党の1つ横山党庶流の小沢氏の城館と伝わる。小沢氏は、横山経兼の弟五郎忠兼に
          はじまるとみられる。
           その後の小沢氏については詳細は不明だが、建暦三年(1213)の和田合戦で、和田義盛に
          与した横山党は敗れて壊滅したため、小沢氏もこのとき滅亡したと考えられる。戦国時代以降
          は、金子氏が小沢城に拠っていたと考えられているため、遅くとも室町時代までには小沢氏は
          滅亡したか衰亡したものと思われる。


       <手記>
           小沢古城は、三方を細尾根に囲まれ、残る一方は相模川の河岸となった、擂鉢状の特異な
          構造をもっています。擂鉢の中心部は字「城の内」と呼ばれ、主郭ないし居館跡と推測されて
          います。すなわち、さながらミニチュア版の鎌倉のような縄張りといえます。
           現在、主郭部は工場となっていて、立ち入ることはできません。また、西側と北側の尾根が
          採土によって大きく破壊されています。城内へは西の尾根から入る道があり、城外とは橋で
          結ばれていたようで、以前は架橋跡や門跡、濠跡があったそうですが、今では失われている
          そうです。唯一残った南側の尾根の麓、高田橋際交差点角の諏訪神社脇に城の説明板が
          立っています。
           『日本城郭大系』では、文明九年(1477)の長尾景春の乱で金子掃部助が籠もった小沢城
          が小沢古城である可能性も高いとしていますが、私は逆に低いと思っています。鎌倉ですら
          戦術の変化に伴い鎌倉時代末期に杉本城を築いたというのに、戦国時代初期にもなって
          多面防御の城を実用していたとは考えにくいように思われるからです。

           
 小沢古城を望む。中央の禿げた尾根とその両脇が外郭。
 禿げ尾根麓の白い建物のあたりが館跡とみられる字「城の内」。
小沢古城南東隅、諏訪神社脇の説明板。 


BACK