古瀬間城(こせま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 松平宗忠 | |
遺構 : 曲輪、土塁、櫓台 | |
交通 : 名鉄豊田市駅からバスに乗り、 「志賀町」下車徒歩5分 |
|
<沿革> 永正三年(1506)に、高橋荘攻略の拠点として松平宗忠によって築かれたと伝わる。 宗忠は十八松平の1つ長沢松平家5代松平一忠の兄弟とされ、長沢城からは距離が あることから、古瀬間松平家とも呼ぶべき分家を興したと考えられる。 古瀬間城のその後については定かでなく、遅くとも徳川家康が関東へ移封となった 天正十八年(1590)までに、廃城となったものと推測される。宗忠の子孫は旗本として 続いたとされるが、そのうちの1家に、「知恵伊豆」こと老中松平信綱を輩出した大河内 松平家がある。ただし、この家系は大河内氏から養子を迎え入れたもので、血縁上の 子孫ではない。 <手記> 古瀬間城は、西方に高橋荘の盆地が広がる小さな峰先に築かれています。北麓に ある浄願寺を抜けると登山路があり、城内は梅園と展望台の立つ公園となっています。 浄願寺は居館跡と思われ、登城路の途中には宗忠の墓があります。 城は主郭といくつかの腰曲輪からなる簡素なつくりです。主郭の付け根側に櫓台が あり、その背後はおそらく堀切だったと思われます。展望台からは平野部が見渡せ、 梅の時期はさぞ香しいことでしょう。 古瀬間城について、高橋荘攻略のためとされていますが、西1.5kmほどのところには 丸根城があります。この城は、松平信光の一子(丸根)家勝によって築かれたとする 説があります。もしそうであれば、こちらの方が高橋荘領主中条氏の居城金谷城に 近く、わざわざ古瀬間城を築くメリットは大きく減じます。 にもかかわらず、家勝から2代以上くだった宗忠のころに新城が必要となったのは、 このとき丸根氏が松平宗家と対立し、中条氏の側にあったからではないかと考えて います。永禄四年(1561)に、中条氏家臣の森城主森豊後守と、丸根美作守家定が 共同で松平元康と戦ったという伝承も、私の説の補完材料といえるでしょう。丸根城 が明らかに家康の時代の改修を受けているのに対し、古瀬間城が旧態依然とした 中世の小城のままなのは、丸根城が家康の手に渡った時点で、役目を終えたから ではないかと思われます。 |
|
浄願寺門前の城址碑と説明板。 | |
主郭背後の堀切跡か。 | |
主郭のようす。 | |
主郭展望台からの眺望。 中央右手の林のはざまが丸根城。 |
|
主郭の櫓台。 | |
櫓台内部のようす。 | |
主郭1段下の腰曲輪。 | |
松平宗忠墓。 | |
浄願寺。 |