丸根城(まるね) | |
別称 : 牛野城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 不詳 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口、馬出、土橋 | |
交通 : 名鉄豊田市駅からバスに乗り、 「神池町」下車徒歩10分 |
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<沿革> 大樹寺に所蔵されている文亀元年(1501)の連判状に、「丸根美作守家勝」の名があり、 これを丸根城主に比定する説がある。さらに岩津城主松平信光の一子に家勝があり、これ を丸根家勝と同一人物とする向きもある。この場合、丸根松平家と呼ぶべき分家があった ことになる。 永禄四年(1561)、丸根美作守家定は森城主森豊後守と共同して松平元康(徳川家康) と戦い、敗北したとされる。丸根松平家が存在したとすれば、家定は松平一族ということに なる。 今日に残る遺構は、明らかにこれ以降の改築を受けているが、城主等一切不明である。 遅くとも、天正十八年(1590)に家康が関東へ移封となるまでには、廃城となっていたもの と推測される。 <手記> 丸根城は矢作川が高橋荘の盆地から再び渓谷部に入る、通称「鵜の首」に望む台地の 先端に築かれています。駐車スペース完備の公園となっていて、私が訪れたときには、 三日月堀に沿って植えられた桜がちょうど満開でした。ピッカピカのランドセルを背負った 新一年生が、桜をバックに記念撮影をしていたのが印象的です。 城は、矩形に近い主郭に丸馬出状の北曲輪が付属するというシンプルな縄張りです。 北曲輪は土橋2本と喰い違い虎口を構成していて、明らかに最終的な改修時期が家康の 時代であることを示しています。おそらく、丸根氏のころは北曲輪を除いた、ほとんど単郭 の城館だったのでしょう。 主郭内には、さらに方形区画を形成する仕切り土塁があったとされ、今はその位置が 石列で地表表示されています。主郭の北西には井戸跡を埋めて建てたとされる石祠と、 川岸へ下りる搦手口と思われる虎口跡がみられます。 さて、丸根松平家が実在したとすれば、一貫して対立していた中条氏の家臣とされる 森氏と共同するのはやや不自然です。また丸根城のすぐ近くには、永正三年(1506)に 長沢松平家の松平宗忠が高橋荘攻略のために築いたとされる、古瀬間城があります。 中条氏の居城である金谷城により近い丸根城があれば、新たに古瀬間城を築く必然性 がどこにあるのか、疑念が湧きます。 そこで私見として、丸根松平家はある時点から松平宗家と対立し、中条氏と手を結んだ 可能性もあるのではないかと考えています。 |
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北曲輪の堀と土塁。 そして城址碑と桜。 |
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北曲輪の三日月堀と土塁。 | |
同上。 | |
主郭北辺の堀。 | |
北曲輪の喰い違い虎口。 | |
北曲輪と主郭の間の空堀。 | |
北曲輪のようす。 | |
主郭のようす。 | |
主郭内の仕切り土塁跡。 | |
井戸を埋めて建てたとされる石祠。 | |
主郭北西隅の虎口跡。 搦手か。 |