金谷城(かなや)
 別称  : 挙母城
 分類  : 平城
 築城者: 中条家長か
 遺構  : なし
 交通  : 名鉄三河線上挙母駅徒歩3分


       <沿革>
           鎌倉時代初期に三河国加茂郡高橋庄の地頭に任じられた中条藤次家長によって
          築かれたとされるが、確証はない。中条氏は武蔵七党の1つ横山党の庶流でもともと
          小野姓であったが、家長は宇都宮氏流の八田知家の猶子となって藤姓を称した。
          中条氏は鎌倉時代を通じて尾張守護職を歴任したため、当主が三河に居住していた
          かは定かでない。
           鎌倉幕府が滅ぶと、中条景長は足利尊氏に従った。このころまでには、金谷城が
          築かれていたものと思われる。近隣には細川氏や仁木氏、上野氏といった足利支族
          が点在していたことから、中条氏は足利氏と関係を持ちやすかったものと推察される。
          以後、中条氏は室町幕府の奉公衆として勢力を保持した。また景長の次男で家督を
          継いだとされる長秀は、越前の冨田勢源や鐘捲自斎を経て、江戸時代に一刀流と
          して栄えた中条流の祖とされる。ただし、長秀自身には武勇に関する逸話は残されて
          いない。
           長秀の曽孫にあたる満平は、永享四年(1432)に将軍足利義教の勘気を蒙り所領
          を没収された。高橋荘は義教の寵臣一色持信と西条吉良家の吉良義尚に分け与え
          られた。どちらかが金谷城を管理したものと思われるが、詳細は定かでない。同十二
          年(1440)の結城合戦で中条氏の一族が戦功を挙げ、満平は所領を回復したものと
          みられている。しかし、三河の主要勢力から一地方勢力程度に没落した。
           応仁元年(1467)に発生した応仁の乱を契機に、三河では同じく幕臣として頭角を
          現した松平氏の勢力が急速に伸長した。明応二年(1493)、中条秀章は寺部城主
          鈴木氏、上野城主阿部氏、伊保城主三宅氏、八草城主那須氏らを糾合し、安祥城主
          松平親忠と井田野で戦ったものの、敗北した。これにより、中条氏の落日は決定的
          となった。
           永禄元年(1558)、中条常隆は今川義元麾下の松平元康(徳川家康)に攻められ、
          降伏した。同四年(1561)には、義元を討ち取った織田信長に攻められ、常隆は戦う
          ことなく開城し、ここに三河中条氏は滅亡した。
           金谷城は、織田家重臣佐久間信盛の預かりとなったとされる。永禄九年(1566)に
          信盛が寺部城も攻め落として与力の余語勝久を入れると、勝久が金谷城代も兼ねた
          ともいわれる。天正八年(1580)に信盛・信栄父子が織田家を追放されると、原勝胤
          や熊谷重長が城主となったとされる。遅くとも信長が本能寺に斃れた同十年(1582)
          には、徳川氏の勢力に組み込まれたと思われるが、その動静は詳らかでない。
           関ヶ原の戦い後の慶長九年(1604)、前出の三宅氏の一族とみられる三宅康貞が、
          1万石で衣藩(挙母藩)を立藩した。康貞は金谷城に入ったものの、荒廃していたため
          北麓に新たに陣屋(桜城)を築いた。この経緯から、金谷城は早ければ家康が関東へ
          移封となった天正十八年(1590)に、廃城となったものと推測される。


       <手記>
           金谷城は矢作川の河岸段丘上に築かれた崖端城で、勝手神社に石碑があります。
          地形から察するに、神社は城の南西端付近に当たると思われますが、その北東一帯
          は宅地化されていて、旧状をしのぶのは大変です。
           金谷城について、挙母城と呼ばれることもあるようですが、旧挙母村からは離れて
          いるので、中条氏時代にそう呼ばれていたことはまずなかろうと思います。おそらく、
          衣(挙母)藩主三宅康貞が仮寓したことからの敷衍と推察されますが、近世の桜城や
          七州城も挙母城と呼ばれるため、ややこしいことになってしまっています。

           
 勝手神社境内の金谷城址碑。
勝手神社。 


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