古城(ふる)
付小手城
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 武田氏か
 遺構  : 石積み、堀跡、削平地
 交通  : JR中央本線石和温泉駅徒歩70分


       <沿革>
           『甲斐国志』には烽火台として記載があるが、詳細は不明である。両城から麓へ下った
          ところには、平安時代から栄えていたとされる長谷寺がある。また、南の大蔵経寺山には、
          古城に対応すると思われる新城がある。


       <手記>
           大蔵経寺山とその北東の峰の間、袋状の山裾に突き出た尾根先に、古城があります。
          電車で訪れる場合には、石和温泉駅から大蔵経寺山頂の新城を見て、尾根から長谷寺
          へ下る道の途中にあります。車の場合は、長谷寺下まで立派な農道を伝って登ることが
          でき、駐車できる幅も十分にあります。
           上述の山道を進むと、登りの場合には右手に礫状の石がごろごろ転がっている塚状の
          頂が現れます。塚状地形は縦に2つ並んでおり、その間は堀のようになっています。塚の
          周囲には、明らかに人工的に積まれたと思われる石積みが部分的に見受けられます。
          塚の頂部はとくに曲輪形成されているようすはありません。2つの塚の山側に、人工的な
          削平地が1つありますが、先端側はほぼ自然地形となっています。
           このように、古城の城郭としての造作は甚だ未熟です。南北朝時代的な選地の新城に
          対して「古城」なのですから、南北朝の争乱が始まってまもなく築かれたものと推測され
          ます。おそらく、築城者は鎌倉時代滅亡時の甲斐守護武田政義か、その跡を襲った武田
          信武と考えられます。また、時代を勘案すると、もともと古城の地には長谷寺の奥ノ院か
          何かの堂宇があり、これを臨時の砦に転用したものなのではないかとする考えが浮かび
          ます。
           古城の北側の峰の頂部には、小手城(こてしろ)の地名があったとされています。この
          小手城へ、尾根上からと長谷寺から、そして上の地図にある北側谷筋の道からの三方
          からの訪城を目指したのですが、いずれも断念せざるを得ませんでした。長谷寺ルート
          はフェンスに阻まれ、他の2ルートは藪に遮られて進行不能となります。周辺は、植林に
          よる杉林となっているのですが、幹はそれほど太くないにもかかわらずずっと人の手が
          入っていなかったようで、倒木雑木が行く手を阻むのです。人工林は比較的歩きやすい
          ものと考えているだけに、この事態は衝撃的でした。
           小手城北側谷筋の道(とはいってもすでに道は消滅しており、半ば遭難しかけながら
          砂防ダムの脇を抜け、麓へ下りてきました)を登りきった、大蔵経寺山から続く尾根の
          鞍部にも、土塁で囲まれた削平地が認められます。後世の建物跡とも考えられますが、
          ここから真西にもう2つ峠を越えると、ほぼ直線で武田氏の居館躑躅ヶ崎館へ至ります。
          したがって、甲府盆地を東西へと抜ける間道があり、その監視施設が設けられていた
          可能性も、考えられるように思われます。
           古城・小手城両者とも、周囲はより高い山に囲まれており、『国志』がいうような烽火台
          としての役割を果たせたか疑問です。新城については烽火台としての価値は残り続けた
          かもしれませんが、この両城については、単純に立て籠もり用の城だったのではないか
          と感じられます。


           
 古城(左手)と小手城(右手)を望む。
 塚状の古城山頂。 
 石積み跡。
2つの塚状地形の間の堀状地形。 
 塚の頂部。
先端側のようす。 
 山側の削平地。
古城周辺から小手城を望む。 
 小手城北側谷筋を登りきった鞍部にある削平地跡。


BACK