新城(にい) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 武田氏か | |
遺構 : 土塁、堀、曲輪跡 | |
交通 : JR中央本線石和温泉駅徒歩50分 | |
<沿革> 『甲斐国志』に記載があるが、詳細は不明である。石和に居館を構えていたころの甲斐 守護武田氏の詰城とする説もあるが、確証はない。 鎌倉時代中期の甲斐守護武田信政の次男政綱は、石和に入植して石和氏を称した。 信政以降、甲斐守護はしばらく不在ないし不明となるが、政綱の子孫である政義が鎌倉 時代末期に守護となった。したがって、政義が石和に本拠を置いた最初の甲斐守護武田 氏ということになる。 興国四/康永二年(1343)、政義は南朝方に属し、北朝勢に敗れて戦死した。その後、 北朝方で活躍した安芸守護武田信武が甲斐守護職を継承した。信武は、信政の嫡男で 安芸へ下向していた信時の曾孫にあたる。 信武の孫信春とその子信満の2代を除いては、歴代の甲斐武田氏当主は石和の周辺に 居館を置いていたと考えられている。武田信玄の父信虎は、永正十五年(1518)ないし 同十六年(1519)に躑躅ヶ崎館を築き、川田館から移った。これにより、武田氏の石和 本拠時代は終焉した。 <手記> 石和の街の背後に聳える山が新城址のある大蔵経寺山です。駅から登山口まで10分 程度と公共交通機関からのアクセスが良いうえ、山梨百名山の1つになっていることから、 一般の登山客も少なくないようです。ただし、山頂からの眺望はまったくといってよいほど なく、名山とは言い難いような気がします。 山頂の標柱より少し西側が山の頂部となっており、その北縁に土塁で囲まれた削平地 があります。そのさらに北側下に腰曲輪が1つあり、その先は尾根となっています。おそ らく、かつてはここから古城を直線で結ぶ道があったものと推測されます。そのほかには 山頂付近には遺構らしきものは見当たらず、緩やかで広い空間となっていました。 尾根筋に登山道を峰側へ進むと、山頂からは少し離れた鞍部に堀切跡が見受けられ ます。さらに行くと結構な大きさの竪堀があります。これらの堀の前後には、とくに曲輪 造成されたようすはありません。岩石がかなり散らばっているのですが、これも人の手に よるものかどうかは分かりません。『中世城館調査報告書集成』では山頂のひとつ西側 の峰が新城跡とされているのは、こうした堀跡を遺構として重視したものと思われます。 他方で、『日本城郭大系』では「巨大な城」と評価していますが、これは散在する遺構の 範囲を城域とすると面積的に広大となるというだけで、個々の遺構は単純で相互に独立 しており、機能的に城郭として完成されているとはとてもいえません。 新城は構造的には至って未熟であるうえに、比高400m超という高さを有していること から、南北朝時代から室町時代中期ごろにかけて築城されたものではないかと考えられ ます。したがって、早ければ武田政義の代に築かれ、遅ければ信虎のころまでは、石和 守護所の詰城として機能していたのではないかと考えられます。廃城時期は不明ですが、 躑躅ヶ崎移転後も烽火台としての役割は果たせていたのではないかと推測されます。 ちなみに、車で訪れる方は北東の長谷寺の麓から登ることをお勧めします。こちらには 幅のある農道が走っていて駐車もできますし、古城を見てから新城へ向かうというルート も確保でき、また高さも大蔵経寺から登るより100mほど稼げます。何より、大蔵経寺は 広大な駐車場をもっていながら、わざわざ立派な鐘楼の景観を損ねてまで「登山客駐車 禁止」の大きな看板を掲げています。買わせ上手の甲斐商人の土地ではちょっと衝撃的 な光景でした。 |
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大蔵経寺山を望む。 中央左手の最高所が城跡。 |
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山頂の標柱。 | |
北縁の土塁で囲まれた削平地。 | |
土塁線。 | |
北縁下の腰曲輪。 | |
堀切跡。 | |
竪堀跡。 |