小谷城(こや)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 小宮山氏か
 遺構  : なし
 交通  : JR高崎線北鴻巣駅徒歩15分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』によると、小谷村に城山と呼ばれるところがあり、小宮山内膳と
          いう者が居住していたとされる。また、箕田村宝持寺の開基は小宮山弾正とされ、忍城主
          成田氏が作成した『成田分限帳』にも小宮山弾正(『記稿』によれば小宮山弾正介忠孝)
          の名がみられることから、成田家臣小宮山氏の持ち城と考えられている。
           弾正は、天正十八年(1590)の小田原の役に際して活動が確認されることから、役後に
          成田氏が改易されるに及んで、同じく城を失ったものと推測されている。したがって、現地
          説明板では内膳について、弾正の祖先にあたるものと類推している。弾正については、
          川口市の戸塚城主としても同名が伝えられており、『記稿』では同一人物と推察している。
          成田氏領から離れた戸塚城の城主として名が挙がっているのは、弾正が岩付太田氏に
          一時期仕えていたからともいわれるが、詳細は定かでない。
           現地説明板によれば、城跡の一角に「鐘塚」の小字があり、城にまつわる伝説が残ると
          される。曰く、かつて6人の堂守(鐘番)がいたが、敵襲に際して鐘を打ち鳴らし続け、全員
          が戦死したとされる。ただ、伝説に該当するような攻城戦の有無は明らかでない。


       <手記>
           小谷城は、宝勝寺から荒川堤防を挟んだ西側にあったとされています。今は河川敷の
          田畑や藪、更地となっていて、遺構はおろか城跡の範囲をうかがうのも困難です。堤防
          の上から見渡すあたりに、城山のほか元屋敷や城山池、小城が池、そして前出の鐘塚と
          いった小字が点在していたそうです。
           上の地図に緑点で示した堤防上に、説明板があります。比定地にお尻を向けることに
          なりますが、城跡に来たことを実感できる数少ないよすがなので、見逃すわけにはいき
          ません。
           宝勝寺の東隣の金乗寺は、もとは城内にありましたが、江戸時代の荒川の流路付け
          替えに際して、現在の場所に移されたそうです。そのまた東の日枝神社は城の北東の
          鬼門除けとの見方があるそうです。神社の本殿裏および西辺には、土塁状の土盛りが
          あり、あるいはここも防御の一端に組み込まれていたとも考えられます。
           3社の北側は旧河道のような屈曲した田圃になっていて、荒川堤防を除くと、かつては
          城の北から西を流れて和田吉野川(現在の荒川)に注いでいたものと推察されます。
          すなわち、北辺と西辺を川に、南を低湿地に囲まれた城であったと思われます。
           ところで、説明板の向こうには「鴻巣蒸留所」という真新しいウイスキー蒸留所があり
          ます。聞いたこともないぞと、すぐ近くにあった酒屋さんに入って尋ねてみたところ、福岡
          の酒蔵が建設したもので、まだできたばかりなので発売は数年後とのことでした。折角
          なのでもう少しお話をうかがったところ、近々きちんとした発掘調査プロジェクトが始まる
          ので、少しでも新しい歴史が見つかるといいねということをおっしゃっていました。また、
          今は酒屋だけど、もとは数代にわたって地域の何でも屋をしていたことや、昔は洪水に
          ずいぶん悩まされる土地だったというようなことも伺えました。ウイスキーは残念ながら
          まだなかったので、「SAITAMA」なる限定酒を購入して次へと向かいました。

           
 小谷城跡説明板。
堤防上から城跡比定地を俯瞰。 
 
 日枝神社の土盛り。
城内から移築されたという金乗寺。 
 おまけ:鴻巣蒸留所


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