窪之庄城(くぼのしょう)
 別称  : 窪城
 分類  : 平山城
 築城者: 窪城氏
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : JR桜井線帯解駅徒歩15分


       <沿革>
           興福寺大乗院衆徒窪城氏の居城とされる。窪城氏は鎌倉時代後期に東大寺領窪庄
          預所を務めた堯円坊頼舜を祖とし、15世紀の順弘ないしその子順専の代に窪城氏を
          称して興福寺方の国人となった。順専は成身院光宣・筒井順永兄弟の姉妹を妻とし、
          順専の娘は古市胤栄に嫁いだ。
           筒井氏と古市氏は応仁の乱以前から対立を続けており、乱中には窪城本家と西家で
          両陣営に分裂したこともあった。両属関係が仇となったとも、生き残り策として分かれた
          とも考えられるが、真相は不明である。窪之庄城は、このころまでには城塞として整備
          されていたものと推測される。
           永正三年(1506)、筒井勢が今市城を攻め落とし、窪庄本城を焼いたとされる。窪城
          西家は筒井氏に与していたことから、本家を追い落としたものとも読み取れる。
           永禄十一年(1568)、上洛した織田信長の後ろ盾を得た松永久秀に攻めたてられた
          筒井順慶は、居城の筒井城を捨てて叔父の福住順弘を頼った。このとき、窪之庄城も
          久秀に攻め落とされている。
           順慶は、福住で雌伏しつつも力を蓄え、元亀元年(1570)には窪之庄城を奪回した。
          その後はゲリラ戦を展開し、ちょうど奈良方面へ出る喉口部に位置する窪之庄城は、
          しばしば出撃拠点として利用された。ただし、窪城氏については動向不明である。
           元亀二年(1571)五月には、松永勢が窪之庄城に攻め寄せたが、撃退に成功した。
          同年八月四日の辰市城の戦いで久秀に勝利した順慶は、信長に臣従して大和国での
          地位を確立した。その後の窪之庄城については定かでない。


       <手記>
           窪之庄城は丘の中腹に土塁と堀で囲まれた方形曲輪が東西2つ並ぶという変わった
          構造をしています。伊賀国のいわゆる伊賀式城館に似ていますが、周辺に同様の城館
          が見られないので、関連性があるのかどうかは分かりません。
           東側の東殿は、八坂神社の境内となっています。西側の西殿にも玄丸大神が祀られ
          ていますが、こちらは階段を登ってすぐのところに石祠があるのみで、郭内は猛竹藪と
          なってしまっています。
           西殿は東殿に食い込むような形となっていて、面積や土塁、堀などの規模も、東より
          西の方が大きいのだそうです。このことも、窪城西家が東殿の本家に取って代わった
          ことの証左とみられています。また、両曲輪とも居館としては充分でも、拠点城としては
          手狭で、かつて麓にあった環濠集落を外郭として取り込んだ姿が、窪之庄城の全容と
          されています。
           とはいえ、前述のとおり西殿の方は踏査が困難です。東殿の神社本殿から裏手へと
          回り、まずこちらの堀や土塁を確認したのち、そこからスライドして西殿の堀や土塁を
          見学するよりほかありません。

 東殿の八坂神社。
東殿北辺の土塁。 
 同空堀。
同じく北西隅のようす。 
 西殿北東角の堀と土塁。
西殿と東殿の間の空堀。 


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