久下氏館(くげし)
 別称  : 久下館
 分類  : 平城
 築城者: 久下氏
 遺構  : なし
 交通  : 秩父鉄道上熊谷駅よりバス
       「上久下」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           鎌倉時代の在地領主久下氏の居館跡とされる。久下氏は私市党(武蔵七党に含め
          られることもある)庶流とされるが、詳しい系譜は明らかでない。
           康治元年(1142)、隣領の熊谷直貞が17歳で死去すると、直貞の妻は久下直光の
          姉妹だったため、2歳になるその遺児を直光が引き取って養育した。この男児は成長
          すると、熊谷次郎直実と名乗った。直光は直実を家人郎党として扱い、熊谷郷の横領
          も行った。この待遇に不満を持った直実は、直光の下を離れて平知盛に仕えた。
           治承四年(1180)に源頼朝が挙兵すると、直実も久下直光・重光父子も、はじめ平氏
          方で参戦した。後に3者とも頼朝方に転じ、各地で活躍した。その功により、久下氏は
          丹波国栗作郷などを与えられた一方、直実は晴れて頼朝の直参御家人となり、熊谷
          郷を回復した。
           これに不満をもった直光は、建久三年(1192)に訴訟を起こした。『吾妻鏡』によれば、
          このとき上手く論述できなかった直実は、憤激して出奔、そのまま出家したとされる。
           重光の孫三郎直高は、承久三年(1221)の承久の乱の後、先述の丹波国栗作郷へ
          移住した。その後の久下氏館および武蔵久下氏については定かでないが、戦国時代
          末期の忍城主成田氏家臣市田長兼の弟に久下刑部大夫の名がみられる(『成田記』)。
          市田氏は久下氏の庶流とされ、長兼は成田氏長の妹を妻としていた。市田氏の
          久下氏館のすぐ近くにあったとされているが、両者が並立していたのかどうかは不明
          である。
           ちなみに、久下氏の家紋は「一番」の字とされる。『太平記』によれば、これは頼朝が
          挙兵した際、最初に兵を率いて馳せ参じたのが久下重光で、勝利できたならば「一番」
          の恩賞を与えるとした書き付けを頼朝から与えられたことによるとされる。だが、前述の
          とおり、実際には久下氏は当初平氏の幕下にあったため、疑わしいといわざるを得ない。


       <手記>
           荒川の河川敷に古城の小字があり、久下氏の館跡とされています。背後の堤防は、
          旧中山道のルートにもなっており、少なくとも江戸時代には存在していたようです。現在
          の河川敷は河川改修によって造成されたものではなく、かつては荒川の河岸や各種の
          問屋・商家が立ち並んでいたそうです。ですので、河川改修の露と消えた多くの河川敷
          の館跡と異なり、この久下氏館跡は当時の地表を今に残す貴重なものといえると思い
          ます。
           実際、『中世城館調査報告書集成』には「堀の痕跡」が残るとあります。ただ、さすが
          に表面観察からそれを見つけることは困難と思いますので、土手や橋の上から眺める
          だけにとどめて、中山道歩き旅の先を急ぐことにしました。

           

久下氏館跡周辺現況。
 


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