鯨岡館(くじらおか)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 鯨岡氏
 遺構  : 曲輪、堀
 交通  : JR常磐線いわき駅徒歩20分


       <沿革>
           岩城家臣鯨岡氏の居館とされる。『磐城系図』によれば、鯨岡氏は富田師行の子
          鯨岡源五左衛門基忠にはじまるとされる。師行の祖父は岩城二郎隆衡の弟の岩崎
          三郎隆久とされ、鯨岡氏は岩崎氏の庶流ということになる。
           一方、『中興系図』には「岩城郡 孫太郎行隆これを称する」とある。岩城家中には
          行隆ないし隆行を諱とする人物が少なくないため、孫太郎行隆が誰を指すのかは
          定かでないが、この場合、鯨岡氏は岩城氏庶流と推察される。また、久保田藩鯨岡
          家が作成した『鯨岡氏系図』では、鯨岡胤国を祖として代々「胤」を通字としている。
          これが正しければ、好嶋東荘の預所であった千葉氏庶流大須賀氏との関連が考え
          られる。
           南北朝時代には、鯨岡乗隆・隆行父子が南朝に属した。延元二年(1337)には、
          結城・小山氏らの援軍を受け、本家岩城氏や好嶋西荘預所伊賀氏ら北朝方と合戦
          に及び、敗れて衰退したとされる。その後、鯨岡氏一族は岩城氏や佐竹氏に仕え、
          戦国時代末期に岩城氏が佐竹氏に従属すると、総じて佐竹家臣となった。
           ちなみに、住吉館西郷館の館主として巨鯨岡氏の名が伝わるが、鯨岡氏との
          関連があるのかは定かでない。


       <手記>
           細長い丘陵の先端に鎮座する羽黒神社一帯が、鯨岡館跡とされています。境内
          は小さな円墳のようになっていて、2段に削平されているものの面積は狭く、物見台
          程度の役割であったと思われます。
           神社の北側には堀跡が残り、さらにその北東側には曲輪跡のような休耕地があり
          ます。あるいは、ここに居館が設けられていたのかもしれません。
           その北の三歳神社との間は切り通し道となっていて、かつての堀切を利用したもの
          とも考えられます。三歳神社も城域に含まれるかもしれませんが、確信を得るような
          ものは見当たりませんでした。

           
 幕ノ内館比定地から鯨岡館跡を望む。
羽黒神社。 
 本殿周りのようす。
本殿下の帯曲輪跡を見下ろす。 
 境内北側の堀跡。
境内北側の休耕地。居館跡か。 
 三歳神社との間の切通し道。
 堀切跡か。
三歳神社。 


BACK