国魂館(くにたま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 国魂氏 | |
遺構 : 不明 | |
交通 : JR常磐線いわき駅からバスに乗り、 「大國魂神社」下車徒歩5分 |
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<沿革> 岩城氏庶流国魂太郎の居館とされる。国魂氏は、鎌倉時代に同族である富田氏との 所領争いに際して『国魂系図』を作成したことで知られる。それによると、高久三郎忠衡 の子で岩城二郎忠清の弟にあたる荒河四郎直平の子に富田三郎行隆があり、その子 三郎隆基が国魂姓を称したとされる。隆基の子が国魂太郎経隆で、成隆・泰秀・行秀と 続くが、その後については定かでない。 南北朝時代には、国魂氏は南朝に属し、延元二年(1337)には鯨岡館主鯨岡氏らと ともに本家岩城氏ら北朝方と合戦に及んで敗れた。これにより、国魂氏は没落したもの と推測される。 <手記> 『日本城郭大系』では国魂館の所在をいわき市平菅波としており、同地区には浜通り の鎮守である大國魂神社が鎮座しています。資料やサイトによってはいわき市勿来町 の國魂神社(窪田城)を国魂館跡としているものもあるようですが、上述の『国魂系図』 に登場する同族の高久や荒川、富田(戸田)といった名字の地は平菅波の周辺に散在 しいます。大國魂神社の由緒にも、「國魂村地頭の國魂氏」が祭祀権を掌握したとあり、 やはり国魂氏の本貫はこの大國魂神社付近であったものと考えられます。 神社があるのはこんもりとした半独立丘で、本殿裏には頂部が削り残されているため、 時代も鑑みると丘そのものが城塞化されていた形跡はみられません。おそらく、山麓の どこかに居館が営まれていたのでしょう。 ちなみに、神社の目の前にはとても目立つ円墳の甲塚古墳があります。周囲を水田 に囲まれながらもはっきりと墳丘を留めているため、一帯は古代から人も住めるような 平地が広がっていたものと推測されます。そのような土地に、岩城氏の分家が早くから 入植していたというのは、充分にあり得ることでしょう。 |
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大國魂神社の丘。 | |
本殿。 | |
本殿裏の頂部の削り残し。 | |
頂部にある小社。 | |
おまけ:甲塚古墳 |