久留里城(くるり)
 別称  : 雨城、霧降城
 分類  : 山城
 築城者: 里見義堯
 遺構  : 堀、土塁、曲輪、井戸等
 交通  : JR久留里線久留里駅徒歩35分


       <沿革>
           天文四年(1535)、安房国の里見義堯は上総国の真里谷武田氏の内訌に乗じ、
          久留里を攻略した。義堯は真里谷氏の久留里城とは別に新しい城を築いて、上総
          経略の拠点とした。一般的には里見氏以降の新城を久留里城と呼び、それ以前の
          真里谷氏の城を古久留里城として区別している。
           永禄七年(1564)の第二次国府台の合戦において里見氏が北条氏に大敗すると、
          久留里城をはじめ上総の大半の城が北条氏に奪われた。しかし、同十年(1567)の
          三船山の戦いで里見義弘が北条軍を撃破すると、里見氏は久留里城を奪還した。
           天正十八年(1590)の小田原の役で、里見義康は豊臣秀吉の不興を買い、安房
          一国のみを安堵された。上総国は徳川家康に与えられ、久留里城には榊原康政の
          長男大須賀忠政が3万石で入った。
           慶長六年(1601)、忠政は関ヶ原の戦いでの功績により、3万石加増の上で遠州
          横須賀城へ移封となった。翌七年(1602)、土屋忠直が2万石で久留里城主となり、
          久留里藩が成立した。しかし、忠直の孫の直樹は延宝七年(1679)に狂気を理由に
          改易され、久留里城は廃城となった。
           寛保二年(1742)、沼田藩主黒田直純が3万石で久留里へ移封となり、久留里藩
          が復活した。直純によって城と城下町も再建され、今日の姿に整えられた。黒田家
          は9代続き、明治維新を迎えた。


       <手記>
           模擬天守があることで観光地としても定着している久留里城ですが、地図で見て
          また実際に訪れて、なかなかに不思議なところにある城だと感じます。とくに近世
          城郭としてみると、城と城下町が離れているうえに、町場からも藩主の居館からも、
          おそらく天守を見ることができません。
           山城部は堀や曲輪の配置など至って中世的で、黒田家の時代にはほとんど顧み
          れていなかったのではないかとすら感じさせます。城下町のすぐ裏手の丘が里見氏
          以前の古久留里城とされていますが、江戸時代になぜ平野部に近いこちらの方に
          こちらに再移転しなかったというのも個人的には疑問です。
           というわけで、中世の城として歩き回れば見どころももっとたくさんあると思います
          が、なにぶん家族旅行で立ち寄ったため自由はありませんでした。いずれ個人的に
          再訪できればと思っています。

           
 模擬天守閣。
同上。 
 天守閣からの眺望。
実際の本丸天守台。 
 本丸隅の櫓台状土塁。
本丸下の波多野曲輪。 
 本丸下の男井戸・女井戸。
本丸下の天神曲輪。 
 二の丸下の薬師曲輪。
薬師曲輪から三の丸(居館部)を望む。 
畑のラインをなぞるとおおよその形が見えます。 
 二の丸下のお玉が池。
二の丸下の堀切。 
 そのさらに尾根先の堀切。
 コンクリでがっちり固められてます。
さらに尾根先の曲輪。 
 同じく尾根先の火薬庫跡。


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