横須賀城(よこすか) | |
別称 : 松尾城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 大須賀康高 | |
遺構 : 曲輪、石垣、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR東海道本線袋井駅よりバス 「七軒町」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 武田勝頼に攻め落とされた高天神城を奪還するための付城群の1つとして、徳川 家康の命を受けた大須賀康高によって築かれた。すなわち、高天神城が武田氏の 手にあった天正二年(1574)〜同九年(1581)までのいずれかのころに築城された ことになるが、正確な築城年については定かでない。高天神落城後は、そのまま 康高が横須賀城主に収まった。 天正十七年(1589)に康高が没すると、娘婿である榊原康政の子忠政が養子と なって大須賀氏と横須賀城を継いだ。しかし、翌十八年(1590)に徳川家が関東に 移封となると、忠政もこれに従った。横須賀城には、豊臣秀次の付家老渡瀬繁詮 が入れられた。 文禄四年(1595)、秀次事件に連座して繁詮が切腹すると、繁詮の正室の弟で 家臣の有馬豊氏がその遺領を継いだ。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで豊氏 は東軍に属し、丹波福知山城6万石に加増転封となった。翌六年(1601)、忠政が 6万石で再び横須賀城主となった。 元和元年(1615)、館林藩主榊原康勝が嗣子なく没したため、忠政の子忠次が 榊原家の家督を相続した。これにより横須賀藩と大須賀家は廃絶となった。 元和五年(1619)、能見松平重勝が関宿藩から2万6千石で入封し、横須賀藩 が再興された。以後、能見松平家2代、井上家2代、本多家1代と城主家が交代 したが、天和二年(1682)に西尾忠成が2万5千石で入城するに及んで、城主家が 安定した。 宝永四年(1707)、宝永地震によって横須賀城の目の前にあった海岸線が後退 し、横須賀湊は使用不能に陥った。西の太田川河口まで用水堀が掘られたが、 中継貿易港としての機能は果たせなくなり、横須賀の町は大打撃を受けた。この ときの藩主は忠成であったが、その子忠尚は老中を務め、計1万石が加増された。 その後、西尾家は8代を数えて明治維新を迎えた。 <手記> 横須賀城は、高天神城と同じ小笠山山系の南西端の尾根先を利用した城です。 南を走る県道41号線の外側は、宝永地震まではもう海でした。横須賀城といえば、 珍しい天竜川の玉石による復元石垣が有名です。これは、本丸と西の丸に囲まれ た枡形に見ることができます。当時はこのほか、主に城の南面に石垣が用いられ ていたようで、北辺は本丸周辺でさえ土塁だったようです。このことから、横須賀城 における石垣は、海上からの見栄えを意識したものだったと推測されます。 本丸の北西には、松尾山と呼ばれるもう1つのピークがあります。松尾山の建物 は多聞櫓が1基だけだったとされ、横須賀城の縄張り上は無理に城内に取り込む 必要のない箇所といえます。ここが城の北東端とされているのは、最初に付城と して築かれた際の本丸だったのではないかともみられています。現在も、松尾山 の背後には中世的な空堀がとても良好な姿で残っています。 本丸・西の丸の西に延びる二の丸跡は、宅地や畑地となっていて、旧状を偲ぶ のは少々難しくなっています。ですが、二の丸跡とその外側、あるいは二の丸跡 の敷地内には、かつての城の名残と思われる段差が散見されます。なにより、 県道に沿って更地として残る南外堀跡は、横須賀城のもう1つの見どころといえる と思います。幅広の堀跡の脇には櫓台や大手門跡も付随していて、十分見応え があります。 玉石垣ばかりが取り上げらえる横須賀城ですが、個人的には松尾山裏の空堀 や南外堀跡の方に、よりそそられてしまいました。 |
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本丸枡形の玉石垣。 | |
復元玉石垣を斜め上から。 | |
茶色の石は発掘されたものをそのまま使用しているそうです。 | |
本丸の天守台。 | |
本丸から松尾山を望む。 | |
本丸北東隅の土塁。 | |
本丸下の三日月池。 | |
西の丸北辺の土塁。 | |
西の丸に残る三和土製防火水槽。 | |
松尾山山頂のようす。 | |
松尾山の多聞櫓跡。 | |
松尾山北東端の空堀。 | |
松尾山西辺の空堀。 | |
北外堀跡。 | |
同上。 | |
南外堀跡。 | |
南外堀跡越しに西櫓跡を望む。 | |
西大手門跡。 | |
二の丸北辺の段差。 | |
二の丸のようす。 | |
北西端の不開門跡。 |