上平寺館(じょうへいじ) | |
別称 : 上平館、京極氏館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 京極高清 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀跡、庭園跡 | |
交通 : JR東海道本線近江長岡駅よりバス 「上平寺」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 『江北記』によれば、近江半国守護京極高清によって永正年間(1504〜21)に築かれたとされる。 一般には、京極騒乱と呼ばれる、京極政経・材宗父子と京極高清の家督争いが終結した永正5年 (1505)の築城と考えられている。それまでの京極氏の居城は、伊吹山西側の太平寺城であった。 騒乱を制した高清は、次男高吉を後継に据えようとしたため、嫡男高延を推す浅見貞則・浅井亮政 らは大永三年(1523)に決起し、高清・高吉父子を追放した。『江北記』によれば、上平寺館はこの ときに焼失した。 翌大永四年(1524)、貞則と対立した亮政は、高清を小谷城へ招いて和解した。天文三年(1534) には高延も浅井氏に降り、その後高清は上平寺へ移った。おそらく、焼け落ちたままの上平寺館を 再建したものと思われる。高清は、同七年(1538)に死去した。高延が跡を継いだが、上平寺を居城 としたかは不明である。亮政の子久政の代に、高延の消息は途絶えた。 その後も、山上の上平寺城は美濃との境目の城として機能したと、『近江城郭探訪』などでは推察 している。しかし、麓の上平寺館も使用されていたかは不明である。 <手記> 上平寺館は、伊吹山の麓に築かれた京極氏の居館です。背後の山上にある上平寺城とは詰城と 根小屋の関係にあり、同一の項目として扱うべきとも考えましたが、上平寺館の歴史が京極氏時代 にとどまっているのに対し、上平寺城はその後の浅井氏時代に再び取り立てられているという異なる 歴史をもつことから、別項としました。 上平寺館は、眼前に北国脇往還が走る交通の要地にあり、伊吹四か寺の1つ上平寺の僧坊跡を 利用して築かれたとみられています。この点は、伊吹神社へと突き当たる大道によって館内が左右 に分断され、同じ四か寺の1つである弥高寺跡などと同じ構造となっていることからも類推されます。 同様の構造は、上平寺城にも見受けられます。 かつての僧坊跡とみられる区画が連なるうちのもっとも右手上段に、狭義の京極氏館があります。 広さはそれほどでもありませんが、特筆すべきは屋敷跡の奥にある池泉庭園跡です。ここは屋敷の 最奥にあたるうえに、河戸川の谷戸に向かって一段下がったところにあります。おそらくは、最高位 の客人のみが招かれ、眺めることができた格式高いエリアであったものと考えられます。現在、庭園 跡には池の跡とちりばめられた巨石の数々が残っており、庭園としての景観は失われていますが、 室町時代の武家庭園の趣を感じ取ることは十分にできます。 狭義の館跡の下には、弾正屋敷と隠岐(尾木)屋敷と呼ばれる曲輪があります。いずれも京極氏 一族の館跡とみられています。とくに、隠岐屋敷跡の周囲には部分的に土塁が残っており、貴重な 遺構と思われます。 さらに下ると内堀跡があるのですが、当時は山水を引いた用水堀だったのか、現在はコンクリート で護岸されていて、遺構としての景観は損なわれています。内堀の南には、杉本坊という上平寺の なれの果てのお坊があります。お坊といっても、集会所の一角を間借りしているという感じだそうで、 なんとも切ない気持ちになります。 上平寺地域は、今日では静かな山あいの集落ですが、かつては集落全体を家臣団屋敷群が覆う、 守護の居所にふさわしい規模をもっていたようです。とはいえ、美濃との国境間際という守護の居城 としては少々辺境ともいえる選地は、奇妙にも感じます。築かれたのが、高清が京極騒乱を制した 後という、京極氏にとっては束の間の安定期であるだけに一層不可思議です。他方で、伊吹山南麓 のこの地域は、京極氏累代の本拠地でもあり、湖北の国人たちが発言力を高めていくなか、累代の 地盤をしっかり固めて、これらの新興勢力に対抗していこうという意図も読み取れるように思います。 |
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(狭義の)京極氏館跡。 | |
館跡奥の池泉庭園跡。 右手奥の巨岩は虎石と呼ばれているそうです。 |
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隠岐屋敷跡の土塁。 | |
弾正屋敷跡。 | |
内堀跡。 | |
伊吹神社脇にある京極氏一族の墓と伝わる墓石群。 |