上平寺城(じょうへいじ)
 別称  : 上平城、刈安尾城、霧ヶ城、桐ヶ城
 分類  : 山城
 築城者: 京極高清
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀、虎口、土橋
 交通  : JR東海道本線近江長岡駅よりバス
       「上平寺」バス停下車徒歩40分


       <沿革>
           『江北記』によれば、近江半国守護京極高清によって永正年間(1504〜21)に築かれたと
          される。一般には、京極騒乱と呼ばれる京極政経・材宗父子と京極高清の家督争いが終結
          した永正五年(1505)の築城と考えられている。それまでの京極氏の居城は、伊吹山西側の
          太平寺城であった。
           騒乱を制した高清は、次男高吉を後継に据えようとしたため、嫡男高延を推す浅見貞則・
          浅井亮政らが大永三年(1523)に決起し、高清・高吉父子を追放した。このとき上平寺館
          焼失したと、『江北記』は記している。おそらく、山上の上平寺城も同じく焼き払われたものと
          推測される。
           翌大永四年(1524)、貞則と対立した亮政は、高清を小谷城へ招いて和解した。天文三年
          (1534)には高延も浅井氏に降り、後に高清は上平寺へ移った。焼け落ちたままの上平寺館
          を再建したものと思われるが、山上の上平寺城も復興されたのかは定かでない。高清は、
          同七年(1538)に死去した。高延が高清の跡を継いだが、上平寺城を居城としたかは不明で
          ある。亮政の子久政の代に、高延の消息は途絶えている。
           その後も、上平寺城は美濃との境目の城として機能したと『近江城郭探訪』などでは推察
          している。上平寺城が再び史料に現れるのは、元亀元年(1570)のことである。『信長公記』
          の同年六月の項に、「去程に 浅井備前越前衆を呼越し たけくらへ かりやす両所に要害を
          構え候」とあり、浅井長政が越前の朝倉義景の助力を受けて、「かりやす」の城、すなわち
          刈安尾城こと上平寺城を構築したことがわかる。この年の四月、長政はいわゆる金ヶ崎の
          退き口で織田信長との同盟を破棄し、近江・美濃国境はにわかに緊張状態となった。逆に、
          刈安尾に城を「構え」たとあることや、信長と同盟関係にある間は上平寺に城を置く必要性
          が薄いことから、長政と信長が同盟を結んだ永禄十一年(1568)までに、上平寺城は廃城
          となっていたものと推測される。
           城将に任じられた堀秀村・樋口直房は、知己であった竹中半兵衛重治を通じて木下秀吉
          に降った。『信長公記』によれば、「たけくらへ・かりやす取物も取敢えず退散なり」とあること
          から、堀・樋口配下の手勢のほかにも長政や越前の兵が駐屯していたものと推測される。
          堀・樋口両名の寝返りにより、上平寺城と長比城は戦うことなく信長の手に渡った。
           廃城時期は不明だが、早ければ寝返りの時点で、遅くとも天正元年(1573)に浅井・朝倉
          両氏が滅亡するまでの間と思われる。


       <手記>
           上平寺城は、伊吹山の南東尾根筋にあります。南東麓の上平寺館奥の、伊吹神社脇から
          登山道が延びています。上平寺城の名は、かつて伊吹四か寺の1つ上平寺があったことに
          ちなんでいます。京極氏の前の居城である太平寺城も同じく四か寺の1つ太平寺に由来し、
          また上平寺のひとつ西の尾根には、やはり四か寺の1つ弥高寺がありました。
           上平寺城は標高約660m、比高約380mという高所に位置していて、その高さは延々と続く
          登山道を上ることで実感できます。とくに、城跡直下の「七曲」と呼ばれる文字どおり九十九
          折れの登城路は、多くの石礫が散乱する堀底道となっていて、おそらく城の最初の要害を
          形成しているものと思います。七曲を登りきると主城域に入りますが、その周囲には多数の
          竪堀が、山肌をがむしゃらに引っ掻いたように連なっています。上平寺城のみどころの1つで
          あり、おそらく元亀年間に改修された部分であると思われます。
           主城域は大きく分けて3つのエリアから成っていますが、最初に辿り着く南エリアも、さらに
          細かく上段・下段とその周囲1段下の腰曲輪群に分けられます。エリアのど真ん中を登城路
          が縦走しているのが大きな特徴で、それによって上段・下段とも左右に分断され、それらも
          また土塁や堀によって細かい区画に分かれています。朝倉氏の援助まで得て築いた城の
          縄張りとしては、いささか不自然に感じられます。
           他方で、やはり城砦化されていた弥高寺の縄張りと類似しており、上平寺の僧坊跡をその
          まま転用した城と見るのが妥当でしょう。江戸時代初期に描かれたとみられている『上平寺
          古図(上平寺城絵図とも)』には、南エリア上段に「三」と書かれ、また東側腰曲輪に「此所
          屋敷」と書きこまれています。つまり、南エリアには上平寺城の居館建築があり、三の丸と
          認識されていたものと考えられます。
           南エリア上段から堀切と土橋を越えると中エリアになります。ここには桝形状虎口があり、
          城内で最も虎口らしい虎口となっています。しかし、その奥の曲輪はやはり中央を城道が
          貫通していて、ここも寺院の造作であることは否めないように思います。中エリアも上下2段
          になっていて、『古図』には「二」と書かれています。
           南エリア上段から数条の竪堀を越えると、北エリアとなります。北エリアとはいっても、本丸
          のほかにはごく小規模な腰曲輪が付いているのみです。本丸は、西側に虎口が開かれ、
          内部に小さな段差があり、周囲は土塁で囲まれています。それなりの広さをもった曲輪です
          が、大きな建物があったというようには感じられず、せいぜい井楼や城鎮守が置かれていた
          くらいだろうと思われます。
           本丸背後には、巨大な堀切と土橋が設けられています。この遺構自体は壮観なものです
          が、同じく朝倉氏が造作したものとされる小谷城月所丸や大嶽砦が背後の尾根筋を2条の
          堀切で断ち切り、土橋は設けていないところをみると、こちら側からの攻撃はほとんど想定
          していなかったのではないかと感じさせます。
           上平寺城背後から、横にスライドして西へ向かう山道があるそうで、ぜひ弥高寺跡も訪ね
          たかったのですが、雪に埋れて道がまったく見えず、断腸の思いで下山することにしました。
          貴重な遺構が良好に残り、城郭史的にも興味深い城ですので、また条件のよいときに訪れ
          ることができればと思っています。

           
 上平寺城址遠望(右手の尾根上方)。
 左手の尾根上方は弥高寺跡。
南エリア下の竪堀。 
 同上。
南エリア下段の曲輪のようす。 
中央左の雪のラインが城道跡。 
 南エリア下段の西側の曲輪。
南エリア下段下の腰曲輪。 
中央から画面左手へ竪堀が延びています。 
 南エリア上段の曲輪。
南エリア奥の堀切と土橋。 
 中エリアの桝形状の虎口。
中エリア下段の曲輪。 
 同上。
中エリア上段の曲輪。 
 本丸下の竪堀。
本丸下の腰曲輪。 
 本丸の標柱と曲輪内の段差。
本丸のようす。 
 本丸背後の堀切と土橋。
本丸周辺から弥高寺跡を望む。 


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