教如上人隠栖屋敷(きょうにょしょうにん)
 別称  : 教如屋敷、教如上人住居
 分類  : 山城
 築城者: 八代八衛門か
 遺構  : 曲輪、土塁
 交通  : 東海北陸自動車道郡上八幡ICから車で30分


       <沿革>
           天正八年(1580)三月、本願寺法主顕如は織田信長と講和し、石山本願寺を退去して紀伊の
          鷺森御坊へ移った。しかし、顕如の長男教如はこれを容認せず、講和反対派の門徒を糾合して
          石山籠城を続けた。結局、教如も八月には石山を去ったが、顕如は教如を義絶し、流浪の身と
          なったとされる。
           このとき、郡上郡の八代八衛門が教如を匿い、山上源大夫と名を変え身を潜めたと伝わる。
          『鷺森旧事記』によれば、八衛門は岐阜の船橋願誓寺門徒とされるが、詳しい素性は詳らかで
          ない。
           天正十年(1582)に本能寺の変で信長が横死すると、教如は謝罪して義絶を解かれ、顕如の
          もとへ戻った。


       <手記>
           気良の集落の最奥近くに「名馬磨墨 生誕の地公園」があり、その南側の小山が教如屋敷跡
          とされています。公園に駐車スペースがあり、そこから上の地図にあるとおりに進めば辿り着け
          ます。周囲は何かしら耕作されていたようで、屋敷跡のある小山頂部付近だけが削り残されて
          いるようです。
           西側中腹から山上に登ることができ、最も広い平場に石碑が建っています。この平場の南側
          には頂部が塚状になっていて、さらに先端方面には2段ほど削平地が続いています。どうみても
          隠棲屋敷というよりは、櫓台を持った3段の曲輪から成る在地領主の詰城といった雰囲気です。
           八幡城主遠藤盛数の家臣として、気良村に佐藤氏の名があり、また古くは土岐氏2代光行の
          子浅野国衝の曽孫国成が気良を領し、その子左近将監頼数が気良氏を称したとされています。
          八代氏の素性は不明ですが、少なくとも教如屋敷跡とされている山城は気良氏ないし佐藤氏の
          居城で、教如の隠棲屋敷はこれとは別に、もう少し麓にあったのではないかというのが、現地を
          訪ねてみての率直な感想です。
           さらに遡れば、公園名にあるとおり付近は梶原景季の愛馬磨墨を生んだ馬産地であり、平安
          時代から拓かれていた土地ということになります。この地に在地領主の詰城があったとしても、
          なんら不思議ではないでしょう。

           
 教如屋敷跡遠望。
「名馬磨墨 生誕の地」碑。 
この公園が目印です。 
 この獣除けゲートを開けて城山へ向かいます。
背後から屋敷跡の小山を望む。 
 教如上人住居跡碑。
碑のある最も広い平場。 
奥に頂部の塚状地形があります。 
 頂部の塚状地形。
 物見台か。
平場先端部のようす。 
 その先に続く2段の腰曲輪状削平地。


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