郡上八幡城(ぐじょうはちまん)
 別称  : 八幡城、積翠城
 分類  : 山城
 築城者: 遠藤盛数
 遺構  : 石垣、曲輪、井戸
 交通  : 長良川鉄道郡上八幡駅からバスに乗り、
      「郡上八幡城下町プラザ」下車すぐ


       <沿革>
           天文九年(1540)、主君・東常慶を東殿山城に討ち、下克上を果たした鶴尾山城主遠藤盛数は、
          東殿山城攻めで陣を布いた八幡山に新たな居城を築いた。永禄五年(1562)に盛数が没すると、
          嫡男慶隆が13歳で跡を継いだ。若年の慶隆は美濃斎藤氏の後見を受けて稲葉山城下に住んで
          いたが、同七年(1564)に竹中半兵衛重治が稲葉山城を奪取した際、木越城主で慶隆の従兄に
          あたる遠藤胤俊が八幡城を奪った。しかし、翌八年(1565)に母の再婚相手である継父長井道利
          の援軍を得た慶隆は、胤俊と和睦し城を回復した。なお、天正(1573〜92)の初めごろまでは遠藤
          盛枝と名乗っていたものとみられている。
           斎藤氏が滅ぶと織田氏に仕え、本能寺の変の後は織田信孝に帰属した。天正十一年(1583)、
          慶隆と胤俊の弟胤基は、羽柴秀吉方の諸将と対峙するため武儀郡の立花山に布陣したが、逆に
          森長可らに包囲された。遠藤勢は飢えに苦しみ玉砕を覚悟するほどであったが、賤ヶ岳の戦いで
          柴田勝家が敗れ、信孝も降伏したとの報が敵将の佐藤秀方から届くに及んで降伏した(立花山の
          戦い)。
           この後、両遠藤氏は秀吉配下として忠勤に励んだが、天正十六年(1588)に突如として立花山の
          戦いなどを理由に、慶隆は小原7500石・胤基は犬地5500石に減転封を命じられた。郡上八幡城
          には、代わって稲葉貞通が4万石で封じられた。貞通によって山上に天守台が設けられ、山麓の
          居館部が拡張されるなど近世城郭としての改修が加えられたとされる。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、慶隆は東軍に属して八幡城奪取を家康に願い出た。
          これを許されると、女婿である飛騨の金森可重と共に郡上へ侵攻して八幡城を囲んだ。そのころ、
          城主貞通は犬山城に入っていたが、すでに家康方の調略を受けて東軍に寝返っていた。慶隆と
          可重のもとにも報せが届いたが、翻意が真であるか定かでないとして九月一日に城攻めを敢行
          した。城を預かっていた貞通の三男通孝はよく守り、遠藤・金森勢の同士討ちなどもあり、激戦の
          末にその日は痛み分けとなった。翌二日、慶隆・可重は和睦を提案し、城方もこれを受諾した。
           その翌三日未明、貞通と嫡男典通が密かに八幡城へ急遽帰還し、その足で愛宕山にある慶隆
          の陣所を急襲した。講和の直後で油断していた遠藤勢は混乱し、5人の将が踏みとどまって命と
          引き換えに慶隆を可重の陣へと逃がした。同じ東軍としての面目を取り戻した貞通は、翌四日に
          改めて和議を持ちかけ、戦いは集結した。
           戦後、貞通は臼杵藩5万石へ加増・転封となり、慶隆も2万7千石で八幡城主に返り咲くことが
          できた。ちなみに、胤基の子胤直は西軍に属して慶隆に敗れたのち、改易となっている。『慶隆
          御一世聞書』によれば、翌慶長六年(1601)から同八年(1603)にかけて、山上の曲輪を惣石垣
          に改修している。
           遠藤家は、5代常久が元禄二年(1689)に7歳で没して無嗣改易となった。その後、井上家2代・
          金森家2代を経て、宝暦八年(1758)に青山幸道が宮津藩から4万8千石で入封し、7代を数えて
          明治維新を迎えた。


       <手記>
           正式な城名は単に八幡城ですが、全国に数多くある同様の名称と区別するため郡上八幡城と
          呼ばれるのが一般的です。昭和八年(1933)に、大垣城を参考に建造された模擬天守が聳えて
          いますが、これは城跡に建つ現存の木造模擬天守としては国内最古なのだそうです。ちなみに、
          天守風建造物を入れると、宮城県は松島の旧松島観光ホテル(現・松島城 日本三景展望台)が
          より古い同二年(1927)ごろの築とされています。
           デジカメなどない中学生のときに一度、家族旅行で訪れていますが、あれから約25年を経て、
          ようやく再度の訪問となりました。ですが二度目の訪問時は12月で冬季休業中、それから1年半
          後の三度目はなんと修復工事中とのことで、天守には入れずじまいでした…。私は模擬天守とは
          本当に相性が悪くてビックリします^^;
           というわけで仕方なく、山麓の居館部だけ見学することにしました。本丸跡の城山公園に駐車場
          があるので、ここに停めて城下も含めて散策できます。城山公園には遠藤氏や稲葉氏、青山氏を
          差し置いて、ずいぶん立派な山内一豊と妻の像が建っています。これは一豊の妻・見性院を慶隆
          の妹とする説があるためですが、確証はなく、一豊にいたっては郡上と縁もゆかりもありません。
          内助の功として有名な馬と黄金の逸話にしても同時代史料にはみられず、個人的には信憑性は
          低いと考えています。
           城山公園内には、ほかに貞通が掘らせたとされる井戸「土霊水」があります。公園の南側には
          岸劔神社があり、居館部本丸の二の門上にあたるようです。その下が二の丸(二の郭)で、ここ
          から本丸の石垣を眺めると、近世城郭らしさが実感できます。
           本丸には二の門と三の門があり、関ヶ原の戦いでの攻防戦では遠藤・金森軍が前者まで攻め
          込んだとされています。このとき、遠藤勢は一の門を突破し、金森勢も東木戸を破ってそれぞれ
          二の丸へなだれ込んだため、しばし同士討ちになったといわれています。ですが、一の門は二の
          丸の西辺にあり、本丸は城山の西麓にあるので東木戸を破るというのも不自然です。おそらく、
          「南木戸」の誤りと思われるのですがいかがでしょう。
           二の丸より下は市街地に呑まれていて、四つ辻に大手門跡の標識は建っているものの、遺構
          は見られません。古き佳き城下町や宗祇水などを巡り、吉田川越しに天守閣を見上げるなどした
          後に、駐車場へと戻りました。
           城と直接は関係ないのですが、個人的にとくに気になっているのが遠藤慶隆の名の由来です。
          遠藤氏の系図上「慶」の字を用いている人物がいないにもかかわらず、盛数の子は慶隆・慶胤・
          慶直と全員「慶」を冠しています。また、慶隆の嫡子慶勝と外孫で養子の慶利も同様ですが、ここ
          でピタッと止んで、またこれ以降「慶」の字はまったく見られなくなります。盛数の旧主・東常慶の
          偏諱とも思いましたが、常慶敗死時点で慶隆はどうみても元服前で、かつ当初は盛枝を名乗って
          いたとされています。なので、慶隆がなぜこの名を称したのか、どうにも不思議でなりません。

           
 宮ヶ瀬橋から城山を望む。
東殿山城への登城途中から天守を望む。 
 せっかくなのでズームで。
本丸跡の城山公園と天守。 
 公園内の井戸「土霊水」。
本丸跡から城下を俯瞰。 
 同じく本丸内の岸劔神社。
二の丸跡。右手は二の門跡。 
 二の丸から見た本丸石垣。
本丸三の門付近の石垣。 
 大手門跡。
西側を流れる小駄良川。 
 水の街・郡上八幡の観光名所「宗祇水」。


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