リヒテンシュタイン城 ( Burg Liechtenstein ) |
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別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: フーゴ・フォン・ペトローネル | |
交通 : メードリンク駅よりバス 「ジードルンクスシュトラーセ」下車徒歩10分 |
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地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1130年ごろ、ウィーン南東のペトローネルを領していた小貴族フーゴ・フォン・ペトローネルに よって築かれた。城の完成後、遅くとも1136年までに、フーゴはフォン・リヒテンシュタインを 称した。城の石材は、古代から続くノイジードル湖畔のザンクト・マルガレーテンの採石場から 調達され、その明るい石の色(Lichten Steinen)からリヒテンシュタインの名が生まれたとも いわれる。 13世紀にリヒテンシュタイン家からシュヴァーベン貴族のヴァルゼー家に渡ったのを皮切りに、 リヒテンシュタイン城は所有者を転々とすることとなった。 1529年の第一次ウィーン包囲に際し、城はオスマン帝国軍によって破壊され、当時の城主 クリストフ・フライスレーベンも捕えられた。戦後に再建されたが、1584年以降はまた所有権を 転々とするようになった。 1683年に第二次ウィーン包囲が起きると、リヒテンシュタイン城は完全に破壊された。翌年、 ヴァッフェンベルク家が城跡と廃墟を買い取ると、リヒテンシュタイン城址は再度売買の対象と なった。 1808年には、リヒテンシュタイン公ヨハン1世がリヒテンシュタインとメードリンクの2つの城跡 を購入した。ヨハン1世はリヒテンシュタイン城の築城者フーゴの子孫で、リヒテンシュタイン家 はハプスブルク家に仕えて17世紀の三十年戦争で活躍し、帝国諸侯に叙されていた。およそ 600年の時を経て、リヒテンシュタイン城は再びリヒテンシュタイン家の所有となった。まもなく 城の復興が図られたが、携わっていた建築家のヨーゼフ・ハルトムートが1816年に死去した ため、計画はいったん頓挫した。1821年、ヨハン1世は代わりに城山のすぐ脇にリヒテンシュ タイン宮殿を造営した。城の普請が始まったのは、ヨハン1世の孫ヨハン2世の代の1884年の ことであった。設計は、同時期にクロイツェンシュタイン城を手掛けていたカール・ガンゴルフ・ カイザーが行ったが、彼もまた翌1885年に亡くなった。しかし今度は中止されることなく、建築 家のリッター・フォン・モルトハイムが後を引き継いだ。新生リヒテンシュタイン城は、1903年に ようやく完成した。 <手記> リヒテンシュタインといえばスイスとオーストリアに挟まれたミニ国家として知られていますが、 リヒテンシュタイン城はその発祥の地にして現在もリヒテンシュタイン家の所有です。ウィーン の南の郊外にあるメードリンクの西に広い独立山塊があり、その北端に位置しています。 城山自体もさらに山塊から突き出た半独立丘の様相を呈していて、南北に浅い谷が入って いますが、高さも広さもなく、それほど要害性があったとも思えません。さしたる戦いの記録も なくほとんどが抵当の歴史のリヒテンシュタイン城には、それほど戦略的利用価値はなかった のではないかと思われます。 一般公開はされていませんが、麓までは散策路が通じています。一応かつての古城の城壁 や塔の廃墟が部分的に残されていて、その内側に19世紀後半らしいメルヘンチックな城館が 建っています。クロイツェンシュタイン城と同じ建築家の設計ということで、たしかに塔の上階の 張り出しや屋根の傾斜、窓の装飾などがよく似ているように思います。 すぐ近くにはリヒテンシュタイン宮殿があり、こちらは一部が「シニアレジデンス」として使用 されているようです(どういった施設なのかは分かりませんが)。 |
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リヒテンシュタイン城を下から見上げる。 | |
同じく東側から。 | |
バス停から城へ向かう途中の散策路のようす。 |