メートリンク城 ( Burg Mödling ) |
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別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: バーベンベルク家 | |
交通 : メートリンク駅よりバス 「フォアデアブリュール イェーガーハウスガッセ」 バス停下車徒歩10分 |
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地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 12世紀中ごろに、メルク修道院からメートリンク領を取得したオーストリア辺境伯(1156年 以降は公)バーベンベルク家によって築かれたと考えられているが、正確な築城年は定か でない。バーベンベルク系初代オーストリア公ハインリヒ2世の一子ハインリヒは、2代目と なった兄レオポルト5世によりメートリンクに封じられ、「ド・メードリヒ(de Medlich)」を称した。 1236年にハインリヒの子孫が絶えると、メートリンク領はレオポルト5世の孫のオーストリア 公フリードリヒ2世に召し上げられた。喧嘩公とあだ名されたフリードリヒ2世が1246年に戦死 すると、バーベンベルク家のオーストリア支配も終わりを告げた。その後、バーデン辺境伯 ツェーリンゲン家2代とボヘミア王オタカル2世が相次いでオーストリア公となり、1278年には ハプスブルク家初の神聖ローマ皇帝ルドルフ1世がオタカル2世を討ち取り、オーストリア公 の地位も獲得した。 ハプスブルク家のもとで、メートリンク城の防備は強化されていった。しかし、1400年頃に オーストリア公アルブレヒト4世は城をパッサウ司教への抵当に入れた。以後メートリンク城 は所有者を転々とし、1529年の第一次ウィーン包囲でトルコ軍により破壊された。1543年、 当時の領主であったロドロン伯ジグムントにより、城はルネサンス様式で再建された。だが、 1556年に落雷による火災で建物のほとんどが焼け崩れた。その後は復興されることなく、 廃墟となって今日に至っている。 <手記> メートリンクはウィーン南方郊外の小都市で、城はその旧市街から少し谷筋に入った場所 にあります。日本の開発領主の詰城にはあり得そうな選地ですが、メードリンクの町を押さ えるならリヒテンシュタイン城のある目の前の独立山塊を利用する方がヨーロッパの文脈に 合っているような気がします。この点は個人的に今なおちょっとした謎です。 バス停から城山西麓の谷筋を遡ると、尾根筋背後の堀切下に回り込めます。城跡内には 2013年に設置された説明板が要所要所に立っていて、とても見学しやすくなっています。 ただし、外国人が来ることは想定していないのでしょう、ドイツ語のみです。ヨーロッパでは 珍しく城内を曲輪ごとに分けて解説していて、正規ルートでは付け根の堀切脇が大手口で、 螺旋状に1周ぐるっと回って主塔にたどり着くようになっています。ドイツで共通という訳では ないと思いますが、日本とは逆に一番外側を一の曲輪や一の門と呼び、進んでいくにつれ 2つ目・3つ目となります。 主塔は船形をしていて、峰先側が六角形を半分にした三面テラスのようになっています。 天井はなく、上がることもできませんが、ルネサンス様式の名残と思われる三面テラスの 窓からは一応なかなかの眺望が楽しめます。 とにもかくにも充実した説明版があることによって、メートリンク城は中世ドイツの城を知る にはとても勉強になる模範的な城跡となっています。ウィーンからメートリンクまでは鉄道で 10分程度なので、ウィーンを訪れる城好きの方にはぜひ足を延ばしてもらいたいおすすめの 古城址です。 |
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メートリンク城を見上げる。 | |
一の門跡。 | |
一の曲輪の大石柱。 奥の城壁と中央の大石柱の上に木製の建物が 渡り廊下のように乗っていたそうです。 |
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二の門跡(中央の説明板付近)。 中央奥にあるのは大石柱。 |
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三の門跡。 | |
三の曲輪の建物跡礎石。 | |
四の曲輪。 | |
礼拝堂跡。 | |
主殿跡越しに主塔を望む。 | |
主塔内部の三面テラス。 | |
主塔からの眺め。 中央に見えるのはシュヴァルツァー・トゥルム。 |
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最後尾の堀切跡。 |