馬橋城(まばし)
 別称  : 小金城、小金屋敷
 分類  : 平山城
 築城者: 千葉氏か
 遺構  : なし
 交通  : JR常磐線/流鉄馬橋駅徒歩10分


       <沿革>
           建長八年(1256)、千葉氏当主千葉頼胤が馬橋に大日寺(現在の万満寺)を開山した。
          大日寺の北には頼胤の居館「小金屋敷」があったとされ、これが一般に馬橋城のはじまり
          とされる。
           『本土寺過去帳』によれば、文明八年(1476)から明応四年(1495)にかけて、高城安芸
          入道・高城孫八・高城安芸入道道友が、それぞれ「間橋」「マハシ」「マバシニテ」没したと
          あることから、根木内城主高城氏の一族が入っていたものと考えられている。
           廃城時期は不明だが、享禄三年(1530)に高城胤吉が小金城を築いて移った後も存続
          したとすれば、馬橋城はその支城となっていたものと推測される。


       <手記>
           馬橋城については、現在大きく2つの比定地が存在します。1つは、馬橋市街地の北の
          三日月神社周辺です。『日本城郭大系』ではこちらを馬橋城としていますが、『中世城館
          調査報告書集成』では、こちらを「三ヶ月馬橋城」としています。
           神社一帯は坂川の河岸段丘にあり、一応の要害地形ではありますが、住宅地として
          完全に造成されており、遺構はおろか旧地形をうかがうのも困難です。旧地形図に照らし
          てみると、かつては三日月神社を西端とする北向きの舌状台地であり、これを利用した
          城があった可能性は考えられます。
           もう1つの比定地は、松戸第三中学校背後の丘上です。『集成』では、こちらが馬橋城
          としています。周辺には「城之腰」の字があったということですが、現在ではこちらも宅地
          開発されており、具体的にどこを指すのかは分かりません。遺構もとくにみられません。
          こちらの台地は西と南に対してかなり高低差があり、要害性も十分です。
           現状では、馬橋城が2つの比定地のうちどちらにあったかを判断する術はありません。
          あるいは、どちらにも城砦があったのかもしれません。ただ、馬橋城の前身とされる頼胤
          の小金屋敷(現地では小金城と呼ばれることも)については、これらとはまた別の場所に
          あったのではないかと考えています。というのも、『大系』で鬼門除けと推測されている
          蘇羽鷹神社(字違いの曽場鷹神社は千葉氏の本城亥鼻城の鬼門除けとなっている)は、
          どちらの比定地に対しても鬼門(北東)とはずれたところに位置しています。神社の南東
          にあたるのは、ちょうど大日寺の裏手付近となります。したがって、頼胤の小金屋敷は
          三ヶ月神社の南にあたるこの位置にあったと考えるべきではないかと思われます。


           
 三ヶ月神社。
神社周辺現況。 
 第三中学校裏手の比定地を見上げる。
学校裏手の比定地周辺からの眺望。 


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