鈎陣所(まがり)
 別称  : 鈎陣屋
 分類  : 平城
 築城者: 足利義尚
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : JR草津線手原駅徒歩20分


       <沿革>
           長享元年(1487)、将軍足利義尚は領地の横領を繰り返し幕府への反抗姿勢をとり続けて
          いた六角高頼を討伐するため、近江に親征し鈎に陣を構えた(鈎の陣)。これに対し高頼は、
          居城観音寺城を放棄し甲賀へ逃れた。高頼は甲賀山中でゲリラ戦を展開し、義尚軍は攻め
          きれず膠着状態となった。
           義尚はそのまま鈎に長期間留まることになり、鈎陣所はさながら仮の御所として機能した。
          京より公家が訪れ、陣中で歌会なども催されたが、同時に義尚は酒色に耽るようになった。
          そして、鈎着陣から約1年半後の長享三年(1489)三月、鈎陣中において25歳の若さで病没
          した。なお、鈎在陣中の同二年(1488)に、義尚は名を義煕と改めている。義尚の死により、
          鈎の陣所は撤廃された。
           

       <手記>
           鈎陣所跡には永正寺が立っています。寺の周囲には土塁と堀跡が残っていて、広さから
          みて主郭と思われます。鈎陣所は複数の曲輪をもった、およそ120間四方のほとんど城郭と
          いってよい規模を有していたとされています。
           ただ、これら土塁の痕跡と小さな説明版のほかに、今ではその跡を示すものはありません。
          水茎岡山城もそうですが、京都の外で将軍が死没した重要な史跡であるにもかかわらず、
          ほとんど見向きもされていないのが少々残念に思われます。

           
 土塁と説明版。
土塁を望む。 


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